火曜日, 8月 3, 2021
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抑圧され、薄れゆく自己を見つめる。齊藤拓未インタビュー

公園の遊具、部屋の片隅、道端など日常のさりげない景色を虚心としたタッチで描いている齊藤拓未。「大人になるにつれ抑圧される自分がいる」と語る彼女は、自身の幼い頃の感性を呼び起こすような風景やオブジェクト、そしてそこに紐づく幼少期の自らの感情を少女の形姿に変換し、キャンバスに描き出す。今回はこれまでの経歴から自らの情緒性をベースにする齊藤の制作背景について話を聞いた。 齊藤さんは日常のスナップのような風景と少女を組み合わせたペインティングをメインに発表していますが、絵画の中ではそれぞれがどう関係しているのか、まずは作品の背景から伺ってもいいですか? 私の絵には女の子が登場するものとそうでないものがあるんですけど、女の子は私自身そのままというより、昔の自分につながる感情のような存在です。風景の方は幼少期のことを彷彿とさせるものが多いです。普段から景色とかものとか、どこか昔のことを連想させる何か見かけた時にはメモをしたり、カメラで撮影したりするのですが、それが作品のベースになっていますね。 WAITING ROOM, 2020, 29.7 × 42cm, Giclee Printing on paper, edition:50 齊藤拓未の作品はこちらから つまり少女はかつての齊藤さん自身のメタファーのように登場している。風景もかつてのことを連想させる役割をになっていますが、どちらも昔のことがキーポイントになっているんですね。  大人になるにつれて自分が抑圧されていると感じていて。それにつれて昔の自分なら持っていたような何かが流れていってしまうというか、どんどん自分がなくなっていく感覚がある。とても嫌な感覚なんですけど、それは。 でも風景とか、あとはモノですよね、そういう存在が昔の自分を思い出させてくれて。自転車を漕いでいる時に香ってきた落ち葉とか、雨が上がったあとの匂いとか、そういう日常的なものを通して昔のことを思い出せることがあるんです。「あ、これだ」というか、言葉ではうまく言えないんですけど、記憶が蘇ってくる感触がある。「あの時と同じだな」って。 その抑圧というのは人付き合いによって自分が押し止められるということですか。 ニュアンスは近い…かもしれないです。だんだんと集団でいることが嫌になっていくんですけど、でもそれに合わせてしまう自分がいる。「一緒に帰ろうね」とか「どこそこで待ち合わせね」とか、周りの友達がそう言ってくれることさえ少し窮屈だった。悪気があるとかはもちろん考えてないんですけど。 私にとって中高は空白期間で、思い出せる出来事がほとんどないんですよね。本当に、どうしてと思うくらい何もない。大人になるにつれて多くなると思うんですけど、そういう人付き合いとか、色んな制約とか、我慢しなくちゃならないこととか。でもそれに合わせているとだんだんと自分の中で何かが薄れていく感じがしていて、それにすごく危機感がある。「ああ、このまま自分が無くなっちゃうのかな」と。 friend, 2020, 45.5×38cm, oil on canvas そうすると作品はある意味で記録に近いようでもあるし、単純な風景や少女の描写ではない。 残しておきたいとしたら風景とか、目に見えてる何かというよりは感情の方ですね。女の子を描いていない景色も、あとはモノとかも、全て昔の自分につながる働きをしていて、だから人は描いていないけど、でも痕跡として残っているようには見せたいと思ってます。 だから「風景と女の子の絵ね」と思われがちな気がしますが、でも状況を描きたいわけではないんです。 経歴の話に少し移ると、齊藤さんは日本画を学ばれてますね。もともと日本画が志望だったんですか?  というより、最初はイラストの方でした。中高と漫画研究会に所属していたのですけれど、でも漫画というよりはずっとイラストを描いていました。その頃からなんとなく女の子の絵とかは描いていましたけど、当時は本当にイラストで。  でも周りの子みたいにものすごい詳しいとかでもなかったし、好きなイラストレーターの人の挿絵がある本は読んだりしてたけど、でもどっぷりという感じでもなくて。だから中途半端。  高校一年生の頃からぼんやりと美術系の大学に進みたいと考えていて、イラストを描いていたせいもあると思うんですけど、特に平面的な表現ができるなと思った日本画を選びました。どちらかというと画壇系の盛り盛りな感じよりはフラットな表現が好きだったし、受験の頃から立体的に描くのがすごく苦手で。デッサンとかも本当に苦手なんですよ。  現在ではアクリルや油彩を使っていますが、マテリアルの扱いに関しては文法が大きく異なると思うんですが、違和感はなく?  学部の頃は日本画の画材を使ってたんですけど、でも岩絵具を使っていると「なぜ使うのか?」のような意味づけを求められてしまう。あとは学部の頃から女の子を描いていたんですけど、日本画材でそれをすると美人画の文脈で受け取られてしまうんじゃないか、と。そちらに進みたいわけではなかったし、自分の描きたいものを考えるとアクリルでも問題なくできた。だから画材から描き方までけっこう変えましたね。 昔は髪とか顔とか、もっとディティールを描き込んでいたんですけど、もっと単純化させ、平面感を強める方向にシフトしました。普段描いていたドローイングがそれに近かくて、ノートにちょこちょこと描いていたものをタブローとして描いてみようと。結果的にそっちの方が自分にとって苦じゃなかったんですよね。 ただルールというか、自分で制限はもうけているとは思います。もうできないことはあまりしないようにしよう、と思っていて。色合いも薄くして、場所によっては色鉛筆を重ねてみたり、曖昧になってしまうので特定の方向に強めるような感じです。 忘れる, 2020, 31.8×41cm, oil on canvas  現在の風景と少女の組み合わせを画面に持ち込んだのはいつ頃から?  2年前くらいです。学部を出た頃かな。その頃は写真で切り取った風景とかを入れたり、少し画面がごちゃごちゃとしていたんですけど、それも幼少期という時間に設定しようと決めて。  よく分からない感じというか、より複雑にはしたいと思ってますね。ただでさえ平坦なタイプなのでペラペラになってしまいがちになる。もっと分かりにくく、もっと複雑に、とは気をつけているかな。その方が何回も見たくなると思うんです。でも最近はそのまま描きすぎているかな、とも。  作品と自分自身のつながりが強いことに抵抗はありますか?  個人的な作品になっているということがですか? それは前に少し悩んでいて、というか、今も時々は考えるんですが…。 あまりにも描いていることが個人的過ぎるのかな、と。ただマイクロポップの作家さんのように、あとはナビ派の人たちとか、いつの時代にも個人的なこととか、身の回りのことを描く人たちはいるのかなとも考えていて。自分の描きたい作品とか、描いていて無理がない作品について考えるとそっちなんじゃないか、と。あとは納得の問題だとは思うんですけど。 個人的なことを描いている作家は好きですか?  好きですね。個人的というか、さりげない、身の回りのものを使った作品と日常の断片を描いている方々は好きです。この間ワタリウムでやっていた青木さんとか、西村有さんとか、古いところでいうとドニ、ヴュイヤールとか…。  モランディも好きです。いつも画集は近くに置いてます。あとはナビ派の人たちはやっぱり好きですね。テーマとかモチーフの点ですごく参考になる。それから画家ではないんですけど、青山静男さん。子供を描き始めた時に一番影響を受けたし、今でも見失いそうになる時によく見ています。  イラストをずっと描いてきたということですが、イラストの遺伝子は自分の絵画に感じますか?  …どうだろう。でも、確かに言われる時はありますね。「イラストだね」とか、そこまで露骨なわけじゃないですけど、でも言われます。  ただ最近はどっちもかな、とは思います。イラストとも言われるし、絵画とも言われる。確かにイラストはずっと描いてたので、その感じがあっても不思議ではないと思う。好きなイラストレーターの人とかもいますし。だから最近は中間でいいかなって考えていて。 イラストと絵画の中間を。 どっちの要素もあっていいんじゃないかって。どっちの要素もあるんなら、それはそれで本当なんだろうし。 描いている少女には表情が描かれていませんね。  描いている時の自分は冷静なんです。だから描かれている人物には表情がない。そこには距離があるんですよね。前に絵を見てくれた人から「齊藤さん自身は諦めている感じだね」と言われて、それはそうかもなと思いました。女の子というか、子供が登場している理由はさっきも話したと思うんですけど、でも子供を描いている理由自体はコンプレックスというか…、どこか憧れに近いのかもしれないです。子供であることに対しての憧れ。 やはり幼少期の自分自身や現在の自分を取り巻く環境とか、あり方に対する強く関係している。  やっぱり今の自分と小学生の頃の自分が地続きでない感覚がどこかにあって。小学生の頃の写真とか、先生からのコメントとか見ているとずっと明るいんですよね。「ああ、そうだったんだ」って。環境も変わったし、自分が変わってきて、昔から大人しい人もいると思うんですけど、私は変わったんだなって。 午後の公園, 2020, 33.3×33.3cm,...

崩れていく造形の先にある美しさを描く – さめほしインタビュー –

さめほしは1997年東京都出身、2020年に武蔵野美術大学油絵学科油絵専攻卒のペインター。2016年頃からアクリルとペンを使い、デフォルメされた少女の顔や体を破裂・溶解させ、その崩壊と形成を繰り返す姿を描いてきた。「可愛いものは崩されても可愛さを保ち続ける」というさめほしに、今回は作品の背景やこれまでの歩みについて話を聞いた。 さめほしさんは生成と崩壊をテーマにした女の子の顔をメインに描かれていますね。顔や目の大きさをデフォルメした顔もそうですが、加えてそれを意図的に崩している。その点にからお話を伺えますか?  感覚的な話になってしまい恐縮なのですが、モチーフについて言えば、一番の理由としては可愛さ。小さい頃からプリンセスのような女の子を描いていることが好きだったんですけれど、両親の影響から90年代頃のアニメを見たりゲームをすることが多くて、その中でデフォルメされたキャラクターを好きになっていったんです。作品の傾向のせいか、よく「アニメが好きなの?」と言われるのですけれど、実際にはそこまでアニメや漫画というジャンル自体に強い思い入れはなくて、むしろ頭身の低い、デフォルメされた女の子の可愛らしさ自体が好きなんです。一方では可愛いさだけじゃなく、その可愛らしさが崩れている状態にも関心が強くて。可愛いのに、その可愛らしさが溶けるように崩れていっている状態。その「もう元には戻らない」ということが余計にその美徳を強めるというか、これは感覚的なことなのですけれど、その様子にすごく惹かれるんです。加虐的な趣味というわけではなく、バラバラになったり破裂していたり、崩壊した可愛らしさにも別の可愛らしさがあると思っていて、むしろ「可愛い」というものを単純化されないカタチで表現できるのではないかな、とは考えています。 クリスマスケーキ 2020年 29.7 × 42cm Giclee Printing on paper edition:50 さめほしによる限定エディションプリントはこちら 顔だけでなく、身体そのものの形状も崩れている絵画もありますね。「可愛いらしさの崩壊」以外にも変形する身体にも関心がありますか?  おっしゃる通り、キャラクター化された女の子以外やその崩壊以外に、そもそも顔がぐちゃぐちゃしていたり体がバラバラになっていたり、あとは硬いものが柔らかいものに衝突して弾け飛んでいる様子とか、グロテスクなものが好きというわけではないのですけれど、そういう様相が綺麗だなとは思っていて。AKIRAという作品に登場人物の1人の体が変形していくシーンがあるのですけれど、特にそこが好きで。むしろそこしか見てないくらい(笑)。きっと途中経過というか、例えば魔法少女の変身シーンのように動いている状態が好きなのかもしれません。そういうわけで形が変わっていく身体については昔から「いつか描いてみたい」程度には思っていたんですが、実際のきっかけとしては愛☆まどんなさんの作品に出会ってからですね。  愛☆まどんなも融解的な色使いをされますけど、崩壊性はそこから。 ええ、そうですね。「ああ、これだ」と氷塊することが多くて、これも発見というか、何かが揃った感覚が自分の中にあったのですけれど、そこからは女の子の顔とか体を崩壊させた絵に取り組むようになりました。 United 2015年 116.7×91cm キャンバスにトレーシングペーパー・油絵具・ペン 現在の絵画を形成するうえで参照した作家さんは他にもいますか? あとは大槻香奈さんですね。最近の作家さんから影響を受けることが多いのですが、大槻さんはデフォルメされた女の子の顔のパーツの配置がすごく卓越していると思うし、縦長の目の描き方はとても参考になります。 どちらも影響力が強い作家さんですけど、その影響下から自由であることは大変ではなかったですか?いや、それが本当にそうで。ただでさえ影響されやすいというか、流されやすいというか、自分自身の性格的にも模倣に走って行きがちなところがあるので悩みました。でもお二人とも特徴的ではあるので、例えば愛☆まどんなさんの異色肌の女の子、影の色に蛍光色を使うこと、あとは目の中に文字を入れるなど視覚的に独特な部分について自分の中で使用を禁じたり、「これはしない」などルールを設けることで追従をしないように心がけましたね。 デフォルメされた女の子、身体や顔の崩壊性以外にも、さめほしさんの作品は線描や絵具の質感も特徴の一つだと思うんですが、こちらも他にルーツがありますか?  その二点については自分の好みかもしれません。もともと線をひくという行為自体がすごく好きで、細い線を描いていたくて今の絵を描き始めたようなものかもしれないです。何も考えずとも引いていると自然と作品が出来上がってくる線の不思議さも好きだし、無意識で線を引いている時間なんかすごく好き。絵具についても、やはり物質としての安心感は好みです。昔は絵具をもりもりにして画面をボコボコさせていたんですけど、でも私の作品は近くで見ると荒っぽさが目立っていて、そこは少し気にしていて。よく「デジタルの方がいいよ」とか「写真の方がいい」とは言われるし、今は表面の仕上げにやすりを使ったりしています。 でも物質感は大事? 大事…ですね。今はデジタルも使ってみてはいますけど、あくまで二次創作というか、どこかで頭のチャンネルを切り替えているように思います。やっぱりモノとして手元にある方が安心するんですよね。作品を横から見たり、斜めから見たり、手に持った時の絵具が乗っかったキャンバスの重さが好きなんです。  絵画に対する愛着はどうやって育ったのでしょう? 昔から絵は好きでしたか?  実はデザイン系の高校に通っていて、だから「絵を描くこと」自体には馴染みがあったんです。3年間デザインを学んでいたんですが、でもデザインはあくまでも人に伝えるためのものですし、できるかぎり綺麗に描かないといけない。そこが少し苦手でした。出される課題も「とにかく綺麗にね」みたいな要望が多くて。絵具ははみ出してはいけないし、筆跡も残しちゃダメ。線なんかガタガタさせるとすごい怒られるんです。課題を提出しても「君のは油絵みたいだね」と言われていたし、そのきっちり描くという状況が嫌…、というよりは苦痛で。 United 2016年 41×41cm キャンバスに油絵具・ペン さめほしによる限定エディションプリントはこちら そこからファインアートに転身しようと? いえ、その時点ではまだ想像もしてなかったです。そもそも中学生の頃は絵本作家になりたくて、酒井駒子さんという作家さんがすごく好きだったんですけれど、それもあってデザインの学校に進学しました。「普通の高校よりはためになるだろう」と。でも進路を選ぶ段階になってファインアートに。美術予備校の体験に友人と一緒に行ったんですけれど、そこで油絵コースのブースがあって「何これ!? すごい綺麗!」と思って高校三年になって油絵に進もうと決めました。 学生時代から活動されてますよね。具体的なスタートはいつ頃から?  活動で言えば、現在の「さめほし」という名前で作品を発表したのが2016年の大学一年生の時。グループ展にお誘い頂いて、そこで初めて「さめほし」という名前、それからアクリル絵画の上から線を引いた作品を発表しました。その前までの作品は女の子でもなかったし、もっと抽象というか、「これ」という像を定めていなかったですね。線は描いていたんですけど、使っていたのも今のようにアクリルではなく油絵具だったし、単純に絵具の質感や線を引くという行為を楽しんでいた時期でした。 油彩をやっていたということですが、現在ではアクリルを使っていますね。 まったく油彩を描かなくなったわけではないのですけれど、ただ私には扱い切れないところが多くて。油絵具の生々しさ、表現の深さや重さはすごく好きなんですけれど、でも私とは速度が合わなかった。女の子を描き始めた当初も油彩だったんですが、どうしても油彩だと乾くのが遅いし、待っているうちに何が描きたかったのか忘れてしまう。信じられないくらい忘れっぽい性格なんですよ。反面、アクリルだと乾くのが速いから鮮度を失うことがない。描きたいものをリアルタイムでアウトプットできる点は大きいですね。 描き手であるさめほしさんと作品が強く呼応しているように聞こえますが、作品は自己言及的ですか? どうだろう…。昔は「絵画は自分自身の鏡だ!」みたいに考えていた時期もあったんですけれど、今はもう意識していないですね。あまり肩に力を入れない、と言うか。意図的に作品と自分を近づけようとはしないんですけれど、でもそもそも絵を描き始めた理由を思い出すと、そこにはある種の保存的な意味合いもあって。写真なら風景を切り取って保存できるし、筆まめな人は文章で残しておくのでしょうけれど、私はその時々の気持ちを残しておく手段が絵しかなかった。絵を見ればその時に考えていたこと、思っていたことを思い出せる。それは安心感があるなとは思います。最初の頃は線で記録するつもりで描いていたふしはあるので。 過剰 2018年 36.4×51.5cm パネルにケント紙・アクリル絵の具・ペン さめほしによる限定エディションプリントはこちら 活動をスタートさせてもう4年になっています。先ほど「最近はデジタルも」とおっしゃっていましたが、作品に変化は生まれていますか? 作品について言えば悩むところもありますし、感覚的な変化もあります。前者で言えば支持体からペンの表現までやり直した方がいいのではとか、線を続けるかどうか、画面ももっと今の作家さんみたいにツルツルさせたり、もっとピッチリ描いた方がいいのかなど、少し模索している最中…ですね。周りに流されやすい人間でして、「線はない方がいいよ」とよく言われるんですが、それもあって「このままでいいのか?」と。あとは線に対する感覚が変わりましたね。昔は下書きもしなかったし、そもそも真っ白なキャンバスに向き合うのが苦手だった。失敗した絵の上から描いてたりしたんですけど、でも今はその辺りもコントロールが効いてきた。だから昔よりは技術がついてきて表現の幅が広がった反面、昔だからこそある思い切りというか、無軌道さが無くなったとは実感してます。昔の方がやたらと線が多かったし、密度も高い。今は「ここは色の境目がないから線は引いちゃダメだ」とか、自分なりの制作ルールが培われていて、昔の絵を見ると「もう描けないな」と思いますね。 感覚的な部分が大きいということはさめほしさんの変化とともに絵も変わっていく。活動をスタートさせてもう4年になりますが、以降に取り組みたいことは考えていますか? 色々と悩む部分はあるんですが、今は画法を変えずに、どれだけ引き出しを増やせるかを考える時期なのかなと。あと最近は崩壊とか破裂、溶けたり崩れたりだけじゃなくて、モノとモノのぶつかり合っている様子とか一体化している様も魅力的に思えてきて。可愛いものは壊れようが崩れようがバラバラになろうが可愛い。それをなんとかして描いていきたいなと思っています。   Profile 1997年東京都出身。2020年武蔵野美術大学油絵学科油絵専攻卒。2016年頃よりアクリル絵の具とペンで崩壊と形成を繰り返す少女を描く。主なグループ展に「FROM KAWAII ART...

不確実な時代にとってのアートの意義を追求する。アーティスト本橋孝祐インタビュー

1989年兵庫県出身の本橋孝祐は、これまで美術を「ひとにとって一つの確認の儀式」として人類特有の営みと位置付けて制作を行ってきた。ペインティングや立体、インスタレーションなど様々なアプローチを取りながらも、そこには一貫して作品と鑑賞者のリレーショナルな意味性を探求する視点を根底に持ち続け、独自の視覚言語を提示してきた本橋にとって制作することの意義、これまでの歩みについて話を聞いた。 本橋孝祐     本橋さんは「死」や「生」などをテーマの一つにした作品を制作されていますが、アートを始めたきっかけから伺ってもいいですか?-アーティストとして活動し始めたのは2013年頃からです。自分は独学で描いていますが「アーティストとして作品をつくる」と初めてキャンバスを買ったのが2013年、それから2年後に1回目の個展をしました。活動のきっかけは、幼い頃の阪神淡路大震災や自分自身の事故など「死」に関連した体験を重ねたことだと思います。例えば誰しも「あなたは明日死にます」と言われたら自分の財産や知識を人に残そうとすると思うのですが、同じように自分の中にあるエネルギーを誰かに残したくなりました。それがアーティスト活動の始まりです。例えるならUSBドライブのように、エネルギーを自分の外に出して、誰かに繋げたかったんだと思います。 《無碍》2020, オイル・キャンバス , 1,167×727mm 方法としては文章とか歌とかあると思うんですが、どうしてアートを?-そこは難しいですね(笑)。昔から絵を描くことが好きだったからだと思います。 絵以外では何に興味があったんですか?-社会心理学や精神分析、あとは国際援助などに興味がありました。大学では心理学を勉強していて、大学を出たら国連で働こうと思っていた時期もありました。心理学に興味を持ったのは中学生の頃。家族が精神疾患を患って、そのときにひとの幸不幸がものの見方に左右されるんだなって。だったら心理学を勉強すれば人を幸せにできるんじゃないかと考えたのが理由です。多分、小さい頃から人に共感しがちで、自分と他人や世の中との境界線が曖昧というか。だから自分と他人両方セットで幸せになりたいみたいな。学生の頃には同年代の人のカウンセリングをしたり、学生サロンみたいなものにも呼ばれて「愛とは何か」みたいな話もしていた頃もありました(笑)。でも考えていくとそれってビジネスじゃないよなと思って。生業にするイメージは持てませんでした。 そこからアートの方へ?-ネガティブな要素もポジティブな要素もありますが、前者でいえば普通に働くことには向いてなかったのだと思います。自分の納得していないルールを守ることが出来ないし、じゃあ自分の生まれてきた意味や、自分が神様で「本橋孝祐」という人間を最大限に有効活用するにはどうすれは良いかなど考えた時、自分が一番没頭できて、意味があると信じられることをしよう、ということでアートに。 《Universal Composition》2020, アクリル・キャンバス , 1,620×1,303, Installation view at elephantSTUDIO 作品制作をする中で感じること、発見することはありましたか?-「アート=自己表現」だと思っていましたが、やっていく中でその感覚は変わっていきました。ルイス・カーンという優れた建築家が「芸術の最も美しい部分は作者個人に所属しない」と言っているのですが、それにとても共感していて、自分というより、自分の手を通して世の中や人間が絵を描いてるという感覚が強くなってきています。今は鑑賞する人が信じられるというか、ある種、心の拠り所になるような作品をつくりたいと思っています。今の時代、特に東京は、変化の速度がものすごいですよね。世の中の様子や価値観がコロコロ変わる。そうやって加速すればするほど、普遍的なものが人間の心の拠り所として必要なんじゃないかなと思っています。もちろん僕自身にとっても。だから普遍的な作品を作りたいと思っています。 制作を始めた頃は「これじゃないな」と納得できない作品ばかり描いていました。どれも素直じゃないというか、説得力を持たない。翌朝見て「駄作だな」と思ってしまう。説得力を持たない作品は、きっと嘘ついてるからなんだと思います。実は結構色んなことを気にしてしまう方で、自分の年齢や周りの人間との社会的な関係、自分が生きている時代のことや性別など。それを忘れて描いてみようと腹を括った時にはいい作品ができました。「何年後経ってもこれは真実だと思えるな」と自分の腹に落ちる作品が。 人生そのものをテーマにした作品が多いですが、それは「普遍的なものをつくりたい」という気持ちから?-そうですね、それはあるかもしれません。普遍性や、真実性が大切だと思っています作品を買った人は毎日見ることになるし、その作品に嘘があったら嫌だと思う。アートは鑑賞する人のパースペクティブというか、ものの見方を提供する側面があります。「今すぐ死んだ方がいいですよ」というメッセージを込めた絵があったら、見る人はそれを否応なしに受け止めてしまいます。真実味がないものをやると世の中に対して害でしかないと自分は思っていて、信じても差し支えないもの、受け入れることで現実と調和するようなものを作品にしたいと思っています。 《光の地蔵(orange,blue,green,purple)》2020, アクリル・木材 , 1,300×450mm その中でも生や死にまつわる作品が多いですよね。-多分、そこに関する問題が一番切実だからだと思います。今年なんか特にそうですが、地球全体が2020年ほど「死」に対して意識的になったことってないんじゃないでしょうか。自分の知人のパートナーも亡くなったんですが、世の中的にも身近な人が亡くなったり、自分の命が危ぶまれる怖さを感じたり、それはなんとなく社会全体で共通している感覚だと思います。パソコンのディスプレイやテレビの向こうで悲惨なニュースがずっと流れていて、でも世間としてはそれを経済やライフスタイルの問題として取り扱うわけですが、みんな心の底では「誰かが死んでしまった」という思いを消化しきれずにいるんじゃないか。そういう空気感があったのが2020年なのかなって。それに対して、つまり死んだ人はどこに行くのか、死をどう受け入れるべきなのかという問いって宗教の問題ですが、現代の生活では個々人が一人でどう解釈するかっていう事に全て委ねられている気がしていて。アーティストとして生死の分断にどう取り組むべきかと。今度個展をするんですが、そこでは「生きている自分たち」にフォーカスしようと思っています。岡本太郎は「芸術とは生きることだ」って言っているけど、そもそも生きていることって一つの特権で。だから個展では身体性の強い作品というか、生命を謳歌することをテーマにした作品と、もう一方で「死んだ人はどこに行ったんだろう」という素朴な疑問を扱おうと考えています。 《Bloom》2020, オイル・木 , 1,303×894mm 制作を続ける中でモチベーションになる目標などはありますか?自分の手も何かを感じる心も、全部つくるためにある気がしています。だからある意味制作は、与えられた身体や命に対する敬意で、ちゃんと使っていきたいです。あとはおこがましいかもしれませんが、単純に自分の関わる人を出来るだけ幸せしたいし、出来るだけ多くの人に関わっていきたいと思っています。   本橋孝祐の作品はこちらから

光をカタチに落とし込む-藤野真司 インタビュー-

 国内での数々の展覧会を行い、2019年にはスロベニアにて行われたアーティスト・イン・レジデンスに参加。ヨーロッパ圏のアーティストと共に制作と展示を行うなど、精力的な活動を行う藤野真司。アーティストになるに至った経緯、光を扱う作品をめぐる思索までインタビューを行った。  ガラスやアクリルに透明な筆跡を施し、作品が置かれた場所の光によって視覚化される《光の標本》シリーズ。藤野の代表的シリーズである当シリーズは「光が我々に何を見せてくれるか」をテーマに制作が行われている。光に対し特別の関心を抱く藤野であるが、はたして彼にとって光とはどのような存在なのだろうか。次のように語った。 「光は場所に関係なくどこにも存在し、鑑賞者の内面的な在り様によって様々なとらえ方ができます。」  人間にとって、切っても切り離せない普遍的な存在でありながら、捉えどころない光。藤野はジェームス・タレルのように光をマテリアルの一つとして取り扱うアーティストに影響を受けたという。そもそも藤野がプロとして創作の世界に足を踏み出したキッカケも光に関連するものだった。  「美術系高校と美大でアートを学び、卒業後はキュレーターとして活動していましたが自分自身が『理屈で考えること』に囚われてしまい、とても窮屈な状態を過ごしていました。そんな中、旅行をした先で室内に射し込む美しい自然光を見てぼんやりと眺めているうちに『理屈で考えること』から離れ開放的な気持ちになることができました。」  藤野によってターニングポイントとなったこの原体験。ある種の天啓を受け取った存在が光であったのだ。また作品性に反映されている藤野のバックグラウンドとして、もう一つ興味深いエピソードを語った。  「私の実家は小さな宿屋を営んでいました。幼少期から絶えず外から人が訪れ、また送り出すという循環の中に身を置いたことで『人は多様だ』という事を感じ取りました。」  作品単体だけでなく、設置された環境と鑑賞者の目線によって作品体験が成立する《光の標本》シリーズ。藤野が掲げるテーマにも通底する。 「心を忙しくしている方に、作品を手に取って頂きたいです。自分が身を置く場所の光が、充分に美しいと感じて頂くきっかけになれば、とても嬉しいです。」  人の多様性を前提とした《光の標本》シリーズ。その包み込むような優しさはまさしく陽光のようである。 アーティストの詳細はこちらから 作品の詳細はこちらから 作品の詳細はこちらから 藤野真司の作品はこちらから

この国でしか出来ない造形を | 野田怜眞インタビュー

1995年愛知県一宮市出身、現在は東京藝術大学 大学院工芸科の漆芸専攻修士課程に在籍中の野田怜眞。昆虫や果実など自然物の造形性を実験的に、工芸の技術やコンテキストを駆使して作品化し、「この国で表現をすること」へ向き合う野田の制作と作品について話を聞いた。 昆虫とバナナをモチーフにした作品が多い印象ですが、まずはその辺りから話していただけますか。-僕の作品はカブトムシなど昆虫、あと最近はバナナをモチーフに漆を使って表現しています。表現したいのは、自然のそれぞれのストーリー。内容としてはごくごくシンプル。というのは基本的なスタンスとして自然を表現のターゲットにしているのと、あとは昆虫や自然を見ていて思うのんですけど、やっぱり人間の作り出す形では敵わないなと。圧倒的にすごいんですよ。自然が生み出した姿形、色の偉大さは僕らじゃ太刀打ちできない。だったら人間の自分には何が出来るだろうと考えた時、その自然の姿形を含め、その背景にあるストーリーを表現し、伝えることだと思って今の表現に至りました。 漆の使用もですが、技法的には工芸に負うところが多いですか。-僕自身が工芸の領域を学んでいるせいもありますけど、でもこの国で造形表現をしようと思った時には重要な素材だなと。気候にせよ、文化にせよ、漆が持っている特性や文脈はとても大きいと思います。あとは工芸自体もそうですね。このジャンルは良くも悪くも素材の制約が強い。マイナスもあるかもしれないけど、でも素材を突き詰めることが出来るし、それに表面処理の技術は卓越していると思う。手を掛ける部分が多いこともあって(工芸は)作品一つ一つへの責任感が強い気がするんですね。そこも好きなところです。 でもプレゼンスする先は現代アートにしている?-そうですね、あくまでもコンテンポラリーアートとして見せたいとは思ってはいます。現代アートを意識したのは、多分、学部4年くらいかな。もともとはジャンル云々ではなくて造形が好きだったんです。違う言い方をすると「目で完結できるもの」。言葉がなくても完結している傾向は、特に工芸の世界に強く見えたんですよ。 コンテンポラリーの作家で注目している人はいますか?-新しいことをやっている意味で感動したのは、やっぱりデミアン・ハーストとか。流行りとかはどうでも良いんですけど、ものとしての価値観が変えられる作品には影響されていると思う。ハーストの作品もそうだし、あとは《泉》とか。 それでいくと彫刻を学ぶ道もあったと思うんですが、それはさっきの素材の問題もありますか?-そうですね、それはある。正直、彫刻でもいいかなとは考えました。だけど、やはり工芸よりも素材的な束縛が少ないせいもあって(彫刻は)ジャンルとして広過ぎるなと。最初に身に着けるべき方法としては工芸が合っていると思ったんです。表現するにあたって手段として考えた時に工芸がよく見えた。今も現代アートを自分の畑にはしたいけど、でも工芸の文脈を捨てるつもりはないですね。 表現の方に話を戻しますけど、最近はバナナのシリーズを始めましたね。興味深いのは、どうしてこの果物がモチーフに選ばれたのかなと。-最初にやろうと思ったのは卒制ですね。きっかけは正直大したことはなくて、金色の大きいバナナがあったら面白いなと。だったら現物を見ようと思って、千葉の農園に。そこがけっこう転機なんですけど、というのは実物がすごくカッコ良かった。太腿くらいの幹に2〜300本ほどが重力に逆らうみたいに生えてて、本当に感動した。それで「これは自分で勝手にデフォルメしちゃ駄目だな」と。まだ自分には早いと思って持ち帰ったんです。最近になって着手してるって感じですね。 基準は自分が感動するかどうか?-もちろんそれもありますけど、でも…、そうですね、何というか少し飛躍するかもですが、美術にとって一番大事なことを考えた時に、それってポジティブさなんじゃないかと。格好いい文脈とかじゃなくてアレなんですけど(笑)。でも見ていてポジティブになれるものを創ることが一番のポイントなのかなと思っていて。マイナスな気持ちにさせるものじゃなくて、見る人にとっていい思い出とか勝利とか高揚感とか、前向きな気持ちを起させるものが大事なんじゃないかと。僕自身、そういう精神性を造形にしたいし。 そのスタンスのバックグラウンドが気になりますね。-多分、学部3年生の頃のカンボジア旅行がきっかけですね。漆のある地域へ行ける奨学金をもらったんですけど、やっぱり現地は日本と比べると貧富の差が激しい反面、でも寺院はめちゃくちゃ派手につくられていて、そこにかける彼らの宗教的な感覚に感動したんですよ。幸福の感じ方って人それぞれだと思うんですけど、お祈りをすることで何か物をもらえるわけじゃないし、物理的な変化はないかもしれない。それでも、少なくとも僕には彼らがそれによって自分の生活をポジティブにしているように見えて。自分の作品もそうありたいなと。 その考えが直に影響した作品は何でしょう。-《尋常に》というカブトムシの作品ですね。とにかく人間の等身大サイズがやりたかった。祈るべき存在としてイメージしたので、そのサイズ感が必要でした。でもこれは自分の化身というか、理想の存在を造形化したかった。それからこの国で表現するなら何が適切かと考えた時、日本には特有のカブトムシがいるし、それにしようと。金箔を使ったのは寺院とかの影響もありますね。やっぱり、金は人を魅了する色だし。 話を聞いていると、作品は象徴的な方向に進むように聞こえますね。-そうですね。例えばカブトムシだったら、ある種の強さの象徴。戦国武将の兜もそうですけど、威厳や強さを表象するものをモチーフには選んでますね。その意味ではバナナも同じ。「Vananaシリーズ」と呼んでいるのですけど、頭文字の「V」は「Victory」と同じでもあるし、あとはさっきの話の続きになりますけど、バナナの持っている力強い生命感はそのシンボルになると思う。 コンセプトがはっきりしている反面、表現に対してミニマルな考え方があると思うのですけど、それは自然の造形に対する気持ちが影響していますか?-どうでしょう…、でも確かに敬意はある。話は逸れるかもしれませんけど…、個人的にどの生物も生まれて来た意味を同じだと思っていて、それでバナナも昆虫も同等の生物として見たときにそれを人間独特の価値観で判断したり、人間と同じ時間感覚で捉えることに違和感があるんですよ、すごく。表現するにも、このままで、つまり人間サイドの尺度でやってしまって良いのかなと。 さっき話していた「人間としてできる表現とは」の話にも繋がりますね。-そう、そうですね。バナナについても、僕は本物から型取りするんですけど、それはバナナが生きたり成長した証をそのまま表現にしてあげたいから。あとは見たときに感じたエネルギーとかを汲み取って、それを色と形ですよね、あとは素材とか技法、そういうものに制約されながらどう表現していくかを考える。人によって見方は色々あると思いますけど、昆虫の姿形って、僕はカッコいいし綺麗だと思っていて。だから変に僕が茶々入れたりするべきじゃない。 今話していたような言葉と作品の距離が近いように思うのですけど、それは意識している?-しているし、そう思って頂けるのは嬉しい。モチーフへに対する気持ちもそうだけど、あとは今言って頂いたみたいにやっぱり目で完結したいし、だとしたら最初に見た時から僕の伝えたいことまでの距離は短くて良いと思っていて。…僕の苦手な作品というか、個人的に抽象画とか読み取るのがすごい苦手で(苦笑)。少しストレスなんですよね。全般的に見ることが好きなんですけど、見る方としても目で完結していたい。そういう意味で造形物とか、あとは虫ですね。虫は一番ストレスが少ない、鑑賞してて。 制作ではビジュアルが先行しますか。-しますね、断然。形自体も、最初にエスキースでやるんですけど、三次元に起こす時—つまり造形化する時に形としてないと把握できない。あとは僕自身、制作自体はぼんやりした言葉の元でしていて、終わった後でコンセプトをしっかり固めるタイプ。手で考えていくタイプですね。その逆はあまり得意じゃないかな。細かく設定するとズレてくるし「文章で良くない?」と思ってしまう。 ジャンルに話を戻しますけど、現代アートのフィールドでやろうとする時、工芸のバックグラウンドは邪魔になりますか?-邪魔にはならないですね。でも表現上、工芸の観点からいうと僕はけっこう無茶をしている。ハンダ付をしたり、技術的なところですね、主に。でも工芸の魅力は落としたくないし、その可能性は絶対あると思ってるので。…とはいえ、確かに(工芸は)良くも悪くも技法や素材に対して意識が傾きがちではあるとは思う。講評でも使用した技法のレベルを美術館にあるような伝統工芸品と比較されたりとか。「いや、もっとバナナのオーラ見てよ!」って感じなんですけど(笑)。でもそれはそれで良い。考え方の違いだし。違う考え方の人がいるのは、むしろ良いことだと思っていて。自分の表現したいことを語り合って、ぶつけ合うのってすごく大事だし。閉じ籠もっちゃダメだなって思いますね。 その姿勢が面白いですね。最後に、今後に挑戦したいことや計画していることはありますか?-今はブラッシュアップですね。新しいものというより、今やっているバナナとか今の表現を掘り下げたい。ちょうど修了制作の時期でもあるし、なので自分の言いたいことをより伝わりやすいように進化させるにはどうすればいいか、今はそこに磨きをかける時期かなと。出来るだけ多くの人に共有してもらいたいと思っているので、そうですね、より伝わるようにはしていきたい。今は「ここがなあ」とか思う点もあるので。あとは、そうだな…、カブトムシみたいに華美でやり過ぎなものは目指したいです(笑) 野田怜眞 / Ryoma Noda1995年愛知県一宮市出身。2014年に愛知県立起工業高等学校デザイン科を卒業し、2015年東京藝術大学工芸科に入学。昨年は東京藝術大学卒業展示にて取手市長賞を受賞。現在は同大学大学院工芸科の漆芸専攻修士課程に在籍中。作品ページ:https://www.tricera.net/artist/8100422Instagram:https://www.instagram.com/ryoma_noda/?hl=ja

工芸と装飾の文脈は絵画に何をもたらすか?京森康平インタビュー。

「僕の目標は時代を超えること。歴史を超えて残ってきた、人類が築いてきた装飾文化を解釈し、アップデートして絵画に変換することで、誰もが『wow!』と言ってくれる作品を創っていきたい」と語る京森康平は「装飾」を手掛かりに、藍染など日本工芸の文脈から制作するアーティスト。今回はその考えと制作について話を聞いた。 アーティストの詳細はこちらから 京森さんは装飾性をコンテキストから絵画を制作していますね。まずはその辺りから伺ってもいいですか。-私は現代装飾家という肩書きで活動していますが、歴史上に数ある装飾文化を自分なりに解釈し、アップデートすることを念頭に置いています。だから、その文脈で見れば、私の作品は絵画という形で、国や地域にかかわらず、装飾文化を新しいフォーマットで紹介しているものかもしれません。現代アート、特にコンセプチュアルな作品は、ある意味で言葉が重要です。だけど私は、少なくとも自分の作品に関していえば、目で見た時、言葉に頼らずとも感動できる仕事にしたいとは思っています。 作品の詳細はこちらから 京森さんは、一方でグラフィックデザインや服飾の仕事に携わっておられましたね。その点は、作品に影響していますか?-影響しているし、大事な点でもありますね。色の組み合わせにおいてはヨーロッパで服飾を学んできたことが生かされていると思います。また僕はデジタルで制作するという事もあって、いかに平面絵画の枠にとどまらないかを大切にしていて、マテリアルや素材の選定、デジタルとアナログの融合など複数の技法や素材を組み合わせることで、作品の強度を高めたいと考えています。 また、日本のグラフィックデザインは浮世絵にルーツがあって、版画の技法や分業で制作するスタイルについては意識して作品に取り込んでいます。 作品の詳細はこちらから 制作の流れについて伺ってもいいですか?-まずはスケッチ、それからデジタルでシュミレーションします。素材をつなぎ合わせたりして、偶然的に生まれて来る想定外の要素は重要ですね。それからCGで作品を描き、マテリアルに応じたプリント技法で出力し、染色したり岩絵の具やU Vレジンで立体的に加工するというのが、大まかな流れです。 作品にはいくつかシリーズがあるようですが、今現在、特に重要なものはありますか?-今は大体5つくらいのシリーズがあって、例えば『A-UN』と言うシリーズは、民族間の差別や偏見を超えることへの願いをメッセージとして込めています。もう一つ重要なのは、「JAPAN BLUE」という、藍染を使ったシリーズ。話は少し飛びますが、僕は社会不適合とか、全部個性だと思っていて。多様性な社会とは、そもそも、そうした既成の枠組みに合わない性質を取り入れたものだと思うし。だから、このシリーズでは不完全性の肯定がテーマにあって、自分では非常に日本人的だと思っていますね。 作品の詳細はこちらから 「視覚的な感動」が言葉と時代を超える力になる、ということですか?-現代アートという世界は、今までずっとコンセプチュアル・アートという、コンセプトや言葉を重視する流れが強い。しかも、欧米中心の。それを日本人の僕が、しかもグラフィックデザインや服飾をバックグラウンドにしている僕が出来ることを探っていきたいと思います。世界のどこにいるか、どういう仕事か、どういう民族かなどは関係なく、誰が見ても「Wow!」と言って貰える作品をつくることが時代を超えることだと思っています。 今後の展望があれば教えてください。-今後の展望としては、日本の伝統工芸の文脈を、装飾という観点からアートに活かしたいなと考えています。具体的には、有田焼や徳島の藍染めなど歴史と伝統が育んできた技術を日本の強みと捉え、自らが描く装飾的な絵画と融合させる。それによって作品/モノとしての価値、強度、エネルギーをより高められるのではないかと考えています。また、それぞれの地域と共創していくことで日本の未来に残せる技術や伝統を守り、さらに進化した伝統が継承されていくことで時代を超えて次の未来に繋がれれば良いなと考えています。 京森康平の作品はこちらから

風景の分解と再統合-加藤公佑インタビュー-

アーティストの詳細はこちらから 「風景の視覚情報を一度分解し、幾何学的な図形に変換する」という加藤公佑。「絵画が生成されるストーリーに興味がある」と語る本人の制作と作品について話を聞いた。 まずは、作品についてお伺いできますか? -基本的に風景をモチーフにしています。ただ風景画を描くのではなくて、そこから視覚情報を分解して、一度幾何学的な模様に置き換えるというプロセスを踏んだ作品を制作しています。参考にしているのは、ローラ・オーウェンスなどですね。風景を描き始めたきっかけは、些細と言うか、まず「大きい作品をつくりたい」と思ったから。そうなれば対象は大きい方が良いし、大きい対象といえば、この世界全体というか、風景かなと。加えて、風景は情報量が多いし、再統合にあたっての解体のしやすさがある。 snowscape, 194×162cm 作品の詳細はこちらから 制作を始めた頃から、風景画を描いていた? -いえ、最初は写実絵画とミニマリズムを組み合わせた作風でした。アイディアとしては、実は安直で(笑)。写実絵画は売れているし、そこに日本的な「詫び・寂び」を構成的に入れた作品であれば売れるだろうと。でも色々と模索する中で「どうせやるんなら、自分の好きな方向を突き詰めよう」と真剣に現代アートの歴史やシーンを学び始めました。都内の美術館を巡ることはもちろん、美術書を読み、知識を含めていった感じでした。ベタな話ですが、西欧のアートシーンの文脈からは影響を受けたと思いますね。今の風景画を描き始めたのは、ちょうど2019年辺りからです。 制作にあたって、重要なのはアイディアや自分の感性ですか? それとも、アートの文脈? -どちらかと言うと伝統を意識しますね。温故知新と言うか、やはり歴史を知らないと新しいものは生み出せないと思うので。古いものを知ってこそ、新しい絵画が描けると思う。自分は画家でありたいし、そうである以上、新しい絵画を創造すると言う、そのコンテキストには乗っていきたいですね。 Awkward Tree, 91×117cm 作品の詳細はこちらから 新しさについて、加藤さんの見解は何でしょう? -「新しさ」とは別の論点かもしれませんが、個人的に、今はキュビスムが面白いと思っていて。あの運動は抽象性が高いですが、私が思うに、キュビスムの本質的な狙いはイメージの再統合にあると思う。その意味では、私がやっている「視覚情報の解体と再統合」と言う絵画の方法論と似ているところがあるのかなと。一回、イメージを崩壊させる。その手法を、また別のイメージで行っているのが自分の絵画かもしれない。 話は変わりますが、そもそもアーティストを志した理由はなんですか? -絵を描くのは好きでしたね。でも得意意識はなかった。特にものすごく褒められた経験もないし。きっかけとしては、多分、高校の美術教師の影響が大きいかもしれないですね。その人はいろいろな美術の本を見せてくれて、その中にジャクソン・ポロックなどもあったのですけど、それに感動した。「絵画ってそもそも何か?」と言う、疑問とか、好奇心に近い感情が原点にあると思う。 Nojima, 91×91cm 作品の詳細はこちらから 今後の活動は、どうされていく考えでしょうか? -2019年から風景画のシリーズを始めて、最近になって改めて考えるのは、自分の関心は絵画が生成されるプロセスに集中しているなということ。反面、ストーリーを見せるメディアとしての絵画についてはどうなのかなと。絵画とは何か、その歴史まで遡って、絵画という存在が生まれるプロセスというストーリーを見せることができる作品を描いていきたいし、そちらの方に興味がありますね。あとは、最も大事だと思うのは、同時代性。現代は検索の時代。S N Sなどプライベートの共有が当たり前のこの時代に、そこからイメージを引っ張って来て自分の絵画に落とし込めたら面白いかな、と。今、この時代だからこそ描ける新し絵画を突き詰めていきたいです。 アーティストの詳細はこちらから

毒と浄化の物語 – 城蛍インタビュー –

城蛍は1996年愛知県出身。2019年に上京して作家活動を開始。今年3月には山下舞子キュレーションによって銀座のGallery Camelliaで初個展を開催した。曰く「瞬間的な物語を切り取る」というスタンスにおいてペインティングされたキャンバス、それから本人曰く「彫刻」と呼称する自作した額縁によって構成される作品を制作する彼女に、今回は作品と制作を中心に、その活動について話を聞いた。 作品の外形的なところから伺いたいのですが、城さんの作品は絵画と額縁に分かれているものとそうでないものがあります。ご自身では額縁の部分を「彫刻」と呼び、装飾物としての額縁と分けておられます。尋ねたいのは、城さんの作品において、この木枠の部分がどういうポジションにあるのかという点です。 一般的に額縁は装飾物の意味合いが強い。絵の飾りという立ち位置。私としては絵画と枠と、別個の存在をつくっている意識はないんですよね。絵を描いて、お手製の額をつけているわけではない。額縁として設定してしまうと、どうしても絵の飾りという聞こえ方になってしまうけれど、でも絵のためにあるわけではない。どちらかが主役で、どちらかが脇役ということはない。 いわゆる平面と立体という区分がし難い作品だと思いますが、その自覚はありますか? 平面かどうかについて言えば、限定してはいないと思う。このかたちの最初期の作品に〈老人と海Ⅲ〉というのがあるのですけど、それはストーリーの瞬間を切り取るというつくり方をして、その瞬間の保存という意味を込めて枠を使いました。そもそも、額縁は大切な写真とか記憶の保存に使うものだから。でも木枠の部分は絵の飾りではないから、平面というか、絵の部分がメインという考え方はしていない。かと言って立体でもないですけれど。だからどっちでもないし、分けるのは難しい。その必要もないと思う。 例えばリチャード・タトルや、あるいは最近の日本では安井鷹之助さんなど、平面と立体のボーダーラインに立とうとする作家さんがいます。城さんにもその意識はありますか? いえ、特に意識はしていなかったです。最初の最初で言えば、キャンバスの四角さが嫌だった。決まった形であることに嫌気が差したんですよ。そもそも絵だけだと角があったり、横があったり、紙だったら紙の厚みがあったりするけど、そういうのが気になるんです。すごく気になる。キャンバスの横に釘を打つなら、絶対にそれは隠したい。邪魔に見えて仕様が無い。そういう考えの人なんですけど、まだ東京に来ていない時、制作をしていてキャンバスの形がすごく気になった。居心地が悪かったんだと思います。それで外側にはみ出そうと思って、キャンバスの四角形から。最初は勢いというか、何か「やっちゃえ」みたいな。 「はみ出す」ための手段として額にたどり着いた。偶発的なことでしたか? いや、論理はあった。だから...偶然とは少し違うと思います。そうすればもっと広がりがあると思っていたから。 キャンバスを形態に手を加える表現方法としてはキャンバスを破いたり切ったり、燃やしたりと色々な先行例があります。中でも絵の外周に進んだ点が興味深いです。 絵の表面に暴力的なことはしたくなかったんですよ。傷をつけるのは嫌だった。 「キャンバスの外」を意識して制作された最初の作品は何でしょうか。 意識の話で言えば〈老人と海Ⅲ〉かな。あれは色々なことがはっきりした作品。でもそこで方向性が生まれたわけではなくて、それ以前にも(木枠を使う作品は)あるにはあったんです。だから...発見に近いのかな。それまでは自分でも気付いていなかった、無意識に続けていたことが自分の中で「そういうことだったのか」と思えた。今はそのやり方を整えている感じです。 例えば〈鯨と波〉は額縁がない円形の作品です。先ほど「ストーリーを切り取るつくり方」と仰っていましたが、つまり最初に作品化したいストーリーの瞬間やモチーフがあって、その実践プロセスで絵画と額縁への分化が必要な場合、そうでない場合があるということですか? そうです、その通りです。だから(額縁を使うかどうかは)場合によりけり。使っている場合にはやはり必然だと思う。だけど、そうじゃない作品もある。無いと成立しないという話ではなくて、必要な場合に採用するやり方。〈鯨と波〉では登場する必然がなかったし、逆にというか、支持体が丸くなる方に進んだ。それが作品にとっては一番自然だったから。無くても完結はするんですよ。枠があるのは、それが作品にとって自然な形だからに過ぎない。 つまり額縁は、あくまで表現の延長線上にあるんですね。ストーリーがあって、絵があって、場合によっては額縁があり変形な支持体がある。 そう、だからとにかく、私としては別々に捉える理由がない。どちらも一つの表現でつながっているから。それに枠があっても無くてもやっていることは同じ。〈鯨と波〉もそうですけど、例えば人の手によって違う姿になった生き物とか、それが生きていた風景とか場所とかを描いている作品もある。そういう作品には枠という形であるべきなのかなって。だから、それぞれですね。 形態から中身に話を移しますが、先ほどのストーリーというのは、映画や小説のように時間軸があるのですか。時間の流れが先か、映像が先かの話ですが。 モチーフが先ですね。描きたい対象があって、その周りにはどういう人がいるのか、それに関わる人物や場所が出てくる。その対象を軸に、それを見た人が目にした景色とか思い出している光景とか、その人たちの脳みその中を考える。結果的にはストーリーとか時間を切り取ってることになりますけど、でもモチーフが先。瞬間的な物語性というか。出てくる人たちの10秒とか10分とか、そういう瞬間的なストーリーです。一生分は考えていない。 登場人物の記憶にフォーカスしているように聞こえますね。 人には限りませんけど、記憶というのはそうかもしれない。だから登場する生き物の見た景色とか出会った人、昔した会話の内容、過去に存在していた場所について考えるのかもしれない。そもそもの最初に額縁を使った時も思い出や記憶に纏わっている。 記憶に焦点を置いているとして、モチーフの出所はどうですか。全くの空想か、それとも身の回りから取材しますか? モチーフが向こうから出て来る感覚に近いのですけど、どうだろう、でもメモはしています。生活する中で目に入ったもの、気になったものを書き留めておく。「あ、これ描きたいな」と思ったものをメモする。断片を集めたりしていて、その中で特に癖のある事柄があるんですけれど、例えば車のヘッドライトとか土偶とか、基本的にそれが作品のメインのモチーフとして出てきたりします。 物語の形式でも、例えば小説には一人称・二人称・三人称とありますが、城さんが制作する際の視点はどうでしょうか。 モチーフの視点かもしれない。だから三人称が近いと思います。自分の思ったことも入るけれど、でも一番近いのはモチーフ。モチーフや第三者が思ったこと、天候とか湿度も割と考えたりします。モチーフとなる存在がどういう場所にいるのか、いたのか、その周りの環境はどうなのかって。例えば土偶をモチーフにした作品なら、そもそも土偶を作った昔の人とか、長い時間をそれと一緒に過ごした持ち主のこととか。その場にいる存在の全てを考える。 メモの話で「描きたいと思うもの」を書き留めると話していましたが、そこに共通点はありますか。というのは、作品には暗色の画材が登場しません。選ばれるモチーフや画材は、目指している世界観と関わりがありますか。 基本的には描きたいものを描いていますけど、確かに共通点はある。暗いとか少し怖いとか、謎っぽいとか、毒があるとか気持ちが悪いとか。明るい部分もありますけど。でも作品にすることでそれを浄化している感覚が近いかもしれない。今は黒を使わないんですけど、それは多分バランスが悪いから。使うと、暗く描かれてしまう。それは少し違うと思うんですよ。暗さが根っこにあっても明るさはあっていい。きれいにしたい気持ちが強いのかもしれない。 負の浄化。 そうですね、それは近い。根本的には自分のだし、表層的には他人にとっての。作品を制作することそのものというか、その瞬間を残しておくことが浄化なのかな。自分であれ他人であれ、作品として、自分のフィルター越しに投影することで浄化になるのかなと。だから白い色を使うんですよ。その方が落ち着けるじゃないですか。 少しバッググラウンドに話を伸ばしたいのですが、例えば城さんが記憶に留めている作家もそういった世界観が多いですか。 どうだろう。シーレ、ボナール、デュマス、ペイトン、ワイエス、あとは村瀬恭子さんとクリス・ヒュン・シンカン、ハマスホイとか無限にいますけど、近さはどうだろう。好きだけど、でも違うと思う。私が描くべき作品でないことが多いと思います。でもハマスホイは、そうですね、違和感があるから......。予備校の先生が「ハマスホイの魅力は違和感」と仰っていて、制作でも、何か足りないと思った時にはその言葉を思い出しています。 コンテンポラリーのペインターが多いですが、元から現代アートに関心が高かった? というわけでも無くて、高校の時に油絵を専攻していたんですけど、そこで学んでいたのはいわゆる伝統的な油彩画だった。いかに描くか的な、技術的な話が多い学校だった。むしろ浪人している時ですね。今の作品がどういう風に成立しているか勉強していたら好きになりました。 少し話がそれますが、城さんは愛知から東京に出てこられて活動をスタートさせましたね。今年で2年目だと思いますが、そもそも上京したきっかけは? 単純にモチベーションの話ですね。私は美大に通っていないのですけど、2年浪人をして、でも細々と制作は続けようと。予備校を辞めてアルバイトしながら暮らしてたんですけど、その間、正直絵はほとんど描いていなかった。......年に2、3枚くらいだったかな。働いて、帰って、疲れたって、本当にその繰り返しだったんですよ。そういう時期にたまたま画家のやましたあつこさんから声をかけて頂いたんです。「続けるなら東京の方がいい。東京においで」って。それは正解だったと思う。環境が全然違うし、入ってくる情報がまるで違うから。 ある部分において、現代アートは戦略的な世界です。城さんは東京に出て来られて、その2年目に最初の個展を開催された。そしてキュレーションは山内舞子さん。非常に好調なスタートですが、自分のポジショニングは考えますか。 ポジションとかは、どうだろう、あまり考えてないです。まだはっきりとはしてないだけかもしれないですけど。でも私の好きな作品があって、それは見る場合もそうですけど、作家が心の底から楽しんでいる作品が良いと思う。そういう作品をつくっていきたい。あとは作品のことだけですね、考えるのは。でも制作は気持ちの面が大きく影響するから、この先どうなるかは分からないですよね。 作品はより変化をしていきますか。例えば、全く額縁を使わなくなるとか。あるかもしれないし、ないかもしれない。そもそも私自身ペインターという自覚もないんですよ。だから作品を絵画に限定するつもりもない。でも、だからと言って彫刻家でもない。今後は(キャンバスと額縁を分けずに)同じ支持体とか、キャンバスの厚みを増していくとか、制作の方向も色々と考えていますけれど、でも絵を描いている部分があることとか、絵を描くこと自体を止めるつもりはないです。......絵は描いていると思う。でもどういうやり方でやっているのか、それは自分でも分からないです。今のところは。 TRiCERAのページはこちらから

似顔絵の表裏

Ikeda ayakoは、自分の感情を肖像画という形でアウトプットする画家です。彼女は色や輪郭といった対象物の細部を表現することを目的としているのではなく、自分の感情や思考、自分自身の中で感じる動きを反映させています。絵画は自己表現のようなもので、彼女の精神を絵画という形でスケッチしているのです。 肖像画の作品が多いようですが、どのような作品なのでしょうか?まずは作品の説明をお願いします。 -作品はその時の気分に左右されるので、いつも描いているテーマが決まっているわけではないのですが、似顔絵を描くことが多いです。ただ、その時の気持ちの表情で似顔絵を描くことが多いです。 小さい頃から絵を描くのが好きで、よく人を描いていました。今でも人を描くのが好きなのは意図的ではないのですが、自分の感情をダイレクトに絵に反映させて表現することを考えた時に、風景や抽象が合わないような気がしました。何となく、自分の感情をダイレクトに表現するにはポートレートが一番いいような気がします。 vivid r_02, 53×45.5cm 作品に描かれている人はランダムな色で描かれていて、リアリズムで描かれているわけではありません。モチーフは架空のものですか? -いや、想像力は自分には合わないので、絵を描くときには原型が決まっています。でも、完成した作品を見た時に、イメージと違うので、原型が役に立っているのかなと思うこともあります。体の各部位の色はイメージを見ながら決めているので、肌の色が緑などランダムな色になっていることもあります。先ほども言いましたが、絵には自分の気持ちが反映されているので、完成した作品を見ると、その時の気持ちが蘇ってきます。作品を制作している間ではなく、絵を描き終えて初めて納得します。 Dedicated to P_07, 19.5×25.4cm もともと絵描きになりたいと思っていたのですか? -いや、でも子供の頃から絵を描くのは好きでした。漫画のようにストーリーを作ることはできないけど、絵は描けるので、美術学校に行こうと思いました。学校の傾向として、体全体を描くように言われましたが、顔の方が面白かったですね。学校では主にイラストレーションの勉強をしていましたが、学んでいくうちに「クライアントの仕事」が苦手になってきました。自分の描きたいものを描きたいと思っていました。 作品にはその時の感情が反映されているとおっしゃっていましたね。でも、モチーフによって描きたいものは変わってくるんですか? -場合にもよりますが、流れがあるわけではないですね。ポートレートを描くのは、何かに追われている時に描くことが多いような気がします。だから、絵を描くことで自分の感情を出しているんだと思います。 去年の秋にスズメを拾って2日くらい一緒に過ごしたんですが、なぜか似顔絵以外のものを描きたいという気持ちになったんです。なので、その時は顔以外のモチーフを描いていました。もしかしたら、これから出会う人や目にするものによって、モチーフは変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。

仲介者としてのアーティスト

刺繍の手法で制作するAsami Asamaは、自分のことを「器」と表現しています。Asami Asamaによると、インスピレーションに忠実に作品を制作することが大切だという。自身をシャーマニズム的なスタイルと称しているからこそ、作品は純粋さを保っているのだそうです。 Asami Asamaの作品は刺繍を中心に制作されていますが、これは最初から習っていたものなのですか? -いえ、最初は一人で絵を描くところから始めました。元々はイラストレーターの仕事をしていたのですが、自分のオリジナルの表現で作品を作りたいと思ったのが、クライアントの仕事をしていたのではなく、アートの仕事にシフトした理由です。 子供の病気がきっかけで刺繍に転向しました。その間、作りたいと思っていても何も作っていませんでした。しかし、絵を描く時間と場所がなかなか取れない。アーティストとしての生活とプライベートを両立できるのは、刺繍だけだと思いました。 Honkadori Bacchus, 33×33cm 刺繍は生活の中で気軽に取り入れられる芸術表現だったんですね。刺繍も独学ですか? -そうですね、独学なので、ワークショップを頼まれても人には教えられないんですよ。自分なりのルールや方法はありますが、特に決まっているわけではありません。作品の作り方は自分の生活の中で出会ってきたものなので、ちゃんと刺繍を習っている人とは違うかもしれません。それに、私は表現を大切にしているので、クラフトやハンドクラフトにはなりたくないんです。 刺繍という手法を使った作品」である以上、アーティストとしての視点は必須です。それについてはどう思いますか? -私の作品はどちらかというとひらめき系です。シャーマニックというと変かもしれませんが、自分の中でアイデアが「降りてくる」という感じです。頭の中にモチーフが降りてきて、それをどうやって作品としてアウトプットしていくか。それが僕の創作スタイルです。 Enlightenment, 33×33cm つまり、アーティストがインスピレーションと作品の間に立っているような気がするんですよね。 ーーそれはあくまでも僕の場合ですが、だからこそ精神状態が大事なんですよね。作家の精神状態とか、目に見えないものが作品に繋がっていると思うんです。だから、自分の状態が不安定な時は、必ず作品に反映される気がするので、絶対に作品を作らないようにしています。朝は「お清めの儀式」をすることが多いのですが、純粋なインスピレーションを得ること、どれだけ純粋な作品になるかが大事だと思っています。 昔は「アーティストというよりシャーマンみたい」と言われることにコンプレックスを持っていましたが、今はそんなことは気にならなくなり、頭で考えている時よりもずっと良い作品が作れるようになり、アイデンティティのようなものすら感じています。 私の作品の流れは、「考える」→「スケッチする」→「キャンバスに刺繍する」です。いつも夜中や明け方に新しいインスピレーションやアイデアを得て、それを忘れないようにすぐにスケッチしています。 Honkadori Giuliano, 33×33cm 最後になりましたが、「The」の中で何か変えたいことはありますか? -いや、特にないですね、自分の作品には原型があって、それをどうやってキャッチして仕事に移せるかが問題なので。だからこそ、心と体には常に気をつけています。肉体的にも精神的にも体調を崩していたら、良い作品は作れないと思うんです。良い「器」になることがとても大切なんです。

誠実さと自己投影の絵画について。Yuta Okudaインタビュー

「自分のやっていることに嘘はない」とyuta okudaは語る。細密画と墨を用いるペインターである彼に、真摯さを何よりも最も尊ぶという制作姿勢を始め、その作品について話を聞いた。 細密画の技法をベースにした生き物のペインティングが多い印象ですが、まずは作品について簡単にご説明願えますか?-自分の作品は全て、無意識の自己投影と自己解釈がベースになっています。無意識のレベルで生き物たちの単体の作品を思い浮かべ、それを意識レベルでコンセプトワーク、例えば般若やマリリンや狛犬などにしていきます。無意識で描きたい題材は、常に花や生きもので、そこから美と醜、愛と嫉妬、生と死など相反する二つのテーマを1枚の中に表現しています。モチーフは常に生きものたちで『beautiful foodchain』コンセプトに、自然の摂理の美しさを描いています。作品の表現手法は年々、ここ数年で、線のみの計算された細密画から、墨のにじみを使った偶然性を線画で活かした作品へと変化してきていますね。環境や心の変化が大きく影響だと思うのですが。それから細かい線画を描く理由は、おそらく気質だろうと思いますね。 デザイナー出身だそうですが、アーティストになったきっかけは?-きっかけは色々とありますが、第一には、きっとアーティストになりたい気持ちが強かったからだと思います。デザイナーとアーティストとでは、全く性質が違いますから。デザイナーとしての私は「柄に力を入れる」類の、非常にクリエイティブ志向の強いタイプでした。でも商業デザイナーに個性は求められない。決まったデザインを、決まった通りに、決まったスケジュールでこなしていくことが必要。それが、思ったよりもストレスだった。だからスタートは「ただ自分の描きたい絵を描きたい」という、本当にそれだけだったと思います。 そうして、すぐに絵を描き始めたのですか?-いいえ、最初は自宅で描いているだけでした。ストレス発散の意味合いが強かったですね。ただひたすら描く。今見返すと、その頃の絵は、すごく密度が高く見える。必死というか、鬼気迫る印象という方が近いのかな。本当にストレス発散だったし、負の感情を吐き出している感じでしたね。人に見せることなんか考えても見ませんでしたね。全く、これっぽちも。言わば毒素ですから、自分の(笑)。 それでも発表活動をされた、つまりプロのアーティストとしてスタートを切ったわけですよね。-認めてくれた人たちがいたんです、私の絵を。自分のネガティブが丸出しになった絵を「いいね」と言ってくれる人たちがいた。驚きでしたね。驚きだったし、有り体に言えば、気持ちが良かった。商業デザイナーでは、そんなこと絶対にないですから。ファッションでは取り繕いをしていたけど、絵画は裸。その部分を見せて、評価してもらえたことが嬉しかった。そんな時期に友人のアーティストを見たりして、その姿に嫉妬し、「自分も」と考えました。アーティストを目指したいと思ったのは、だから嫉妬心かも。それでもやるならプロとして、趣味ではなく、生半可な気持ちは捨てようと思っていました。やるなら、徹底的にやろうと。 作品は自己投影的と仰っていましたね。制作のプロセスは、当初から「無意識→意識」のように定まっていたのですか?-最初の頃は、もうひたすら描く、に尽きますね。平均したら1日15時間くらいかな。3日間描いて半日寝るとか、とにかく吐き出そうと思って。溜まっていたもの、湧いてくるものを全部吐き出したら、ようやくコンセプトが見えてきた。それが「自己投影」。ファッションとは逆ですね。そっちではコンセプトメークが先にあって、そこから組み立てていましたけど、私がアートでやっているのは自分自身を発見していくこと、つまり一番正直な自分を出すこと。どれだけ裸になれるか、どうやってその部分を引き出すかが重要になってくる。自分の経験がどういった形でアウトプットされるか、それを見てみたいんです。 ですが、ご自身の経験をベースにしているとインプットが大変じゃありませんか?-最初の3年で尽きましたね(笑)。30年の人生が、3年で底を突いた。でも、それは上澄の30年だと思っています。もっと掘り下げられると思うんです。自分の本質が何か、自分のベースが何か、この3年で自分の30年を振り返ることが出来た。3年かけて、ようやく自分が分かってきた気がするんです。だから、これから色んなものを取り入れ、新しくつくっていく。今は第二のスタートに立っている気分ですね。 最近では初期の細密画に加え、墨などを使用した作品も増えました。その変化は意図的なものですか?-私の作品は、やはり、私自身と連動しているから変わりはする。物質的にも精神的にも、昔と全く同じような絵を描けと言われても、それはすごく難しい。変わりはするけど、でも言えることは、今自分がやっていることに嘘がないということ。本当に疑問が湧かないんですね。さっきも話に出ましたけど、私の絵はいかに裸になれるか、自分に正直になれるかが重要。だから、それを基準に考えるのであれば、今やっていることに間違いがないことは断言できると思います。一方で制作や技法のことを言えば、まず大作や多作の点が課題ですね。以前は絵を描いて食べれること自体が幸せでしたが、今は目標をより上に置いているせいもあり、今後は作品の点数にも気を付けていきたい。他にも、例えば素材については常にアップデートをかけるように心がけていますね。水彩も試したし、銅版も油彩も、日本画も、あとは粘土など色々と試した。その結果、自分の性質に合うのが墨だなと。 3年間の制作と発表という形でご自身の整理整頓をして、新しい目標と課題も見えてきて、今は次のステップを目指されると。その目標は、もう具体的に見えているんですか?-私の作品は自己投影なので、やはり、将来のビジョンの全てがはっきりとはしていません。言えることは、それでも自分に嘘はないということ。制作では裸でありたいし、正直でありたい。だから自ずと出て来る自分の経験を活かしたいですね。先ほども少し出ましたが、私の絵は、無意識のレベルで言えば常に花や生きもの、その美と醜や生と死に言及しています。自分の見たいもの、見ようとしているもの、絵画として描きたい者が少しずつ明確になってきている。ようやく空っぽに慣れたので、これからは様々な経験を取り入れ、それを絵画に練り上げていく仕事が待っていると思います。多分、絵はどんどん変わっていく。今の私と、絵を描き始めた当初の私は違う。だから昔のような切羽詰まった雰囲気ではないかもしれません。でも、変わる部分があることが悪いとは思わないんです。むしろ環境や自分の変化を理解しつつ、取り入れつつ、いかに自分だけの絵画を描いていくかを考えていきたい。どう変わっても、私の場合は自分の活動に嘘がなく、疑問がなく、正直であるならば大丈夫なんです。私にとって絵は一番の裸の部分、正直な部分を見せることですから。

“新しい絵を描きたい”

独学で制作している加藤浩介は、美術史や現代の美術シーンを熱心に研究・研究している若者の一人です。彼の作品は、風景を参考にしながら、情景の中にある視覚情報を分解し、幾何学的な図形に変換することで制作されています。絵画の背景にあるストーリーや制作過程に興味を持ち、「そもそも絵画とは何か」という命題を常に念頭に置き、絵画の境界線を押し広げる姿勢を示しています。 まず、あなたの絵について教えてください。 私の作品のモチーフは風景です。ただ風景を描くのではなく、視覚情報を分解して幾何学的なパターンに置き換えています。私はローラ・オーエンスからインスピレーションを得ています。風景画を描くようになったきっかけは、大きな絵を描きたいと思ったからです。対象物は大きければ大きいほど、その対象物の世界全体を表現するのに適しています。また、ランドスケープは情報量が多く、再統合のために分解しやすい。 Nojima, 91×91cm 最初から風景画を描かれていたのですか? いえ、最初はリアリズムとミニマリズムを組み合わせた作品を描いていました。23歳の時に描き始めたんですが、自分の作風はとてもシンプルで、リアリズムの絵は結構売れるから、日本の文化である「侘び寂び」を組み合わせれば売れるんじゃないかと思っていたんです。しかし、いろいろなことを模索しているうちに、自分の好きな形で何かを作った方がいいと思い、現代美術の歴史や情景を勉強し始めました。都内の美術館にもたくさん行きましたし、美術関係の本も読んで知識を得ました。2019年頃から自分のスタイルで風景を描き始めました。 作品を制作する際に大切にしていることは、アートの文脈なのか、それとも自分の考えや気持ちなのか。 新しいものを作るには伝統や歴史を知る必要があると思うので、私は伝統をより重視しています。古いスタイルを知ることで、新しいスタイルの絵画が描けると思います。私は画家でありたいと思うと同時に、新しい絵画を作るという文脈の中にいたいと思っています。 snowscape, 194×162cm 新しさについてはどのようにお考えですか? 新しさとは違う言葉かもしれませんが、キュビスムは面白いと思います。キュビスムは抽象的でありながら、本質的な目的はイメージの再統合だと思うんです。そういう意味では、私の描き方にも似ていると思うのですが、違うイメージでやっているのかもしれません。 そもそもなぜアーティストになろうと思ったのですか? 絵を描くことは好きでしたが、自分に特別な才能があるとは思っていませんでしたし、人から褒められることもありませんでした。きっかけは、高校時代の美術の先生がいろいろな美術の本を見せてくれたことです。その中にジャクソン・ポロックの本があって、感動しました。そもそも絵ってなんだろう」という好奇心が私の原点でした。 Awkward Tree, 91×117cm 今後の予定を教えてください。 2019年から風景シリーズを始めたのですが、私の焦点は制作過程にあることを再認識しました。私は、絵画とは何か、絵画の歴史を物語るようなものを描くことに興味があります。もう一つ重要なのは、同時代性です。今は誰もが何でもネットで検索する時代です。ソーシャルメディアから画像を引っ張ってきて、それを自分の絵の中に入れたら面白いのではないかと思っています。今の時代の良い部分を取り入れながら、今後も絵画を追求していきたいと思っています。

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