土曜日, 9月 18, 2021
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抑圧され、薄れゆく自己を見つめる。齊藤拓未インタビュー

公園の遊具、部屋の片隅、道端など日常のさりげない景色を虚心としたタッチで描いている齊藤拓未。「大人になるにつれ抑圧される自分がいる」と語る彼女は、自身の幼い頃の感性を呼び起こすような風景やオブジェクト、そしてそこに紐づく幼少期の自らの感情を少女の形姿に変換し、キャンバスに描き出す。今回はこれまでの経歴から自らの情緒性をベースにする齊藤の制作背景について話を聞いた。


齊藤さんは日常のスナップのような風景と少女を組み合わせたペインティングをメインに発表していますが、絵画の中ではそれぞれがどう関係しているのか、まずは作品の背景から伺ってもいいですか?

私の絵には女の子が登場するものとそうでないものがあるんですけど、女の子は私自身そのままというより、昔の自分につながる感情のような存在です。

風景の方は幼少期のことを彷彿とさせるものが多いです。普段から景色とかものとか、どこか昔のことを連想させる何か見かけた時にはメモをしたり、カメラで撮影したりするのですが、それが作品のベースになっていますね。

WAITING ROOM, 2020, 29.7 × 42cm, Giclee Printing on paper, edition:50

齊藤拓未の作品はこちらから

つまり少女はかつての齊藤さん自身のメタファーのように登場している。風景もかつてのことを連想させる役割をになっていますが、どちらも昔のことがキーポイントになっているんですね。

 大人になるにつれて自分が抑圧されていると感じていて。それにつれて昔の自分なら持っていたような何かが流れていってしまうというか、どんどん自分がなくなっていく感覚がある。とても嫌な感覚なんですけど、それは。

でも風景とか、あとはモノですよね、そういう存在が昔の自分を思い出させてくれて。自転車を漕いでいる時に香ってきた落ち葉とか、雨が上がったあとの匂いとか、そういう日常的なものを通して昔のことを思い出せることがあるんです。「あ、これだ」というか、言葉ではうまく言えないんですけど、記憶が蘇ってくる感触がある。「あの時と同じだな」って。

その抑圧というのは人付き合いによって自分が押し止められるということですか。

ニュアンスは近い…かもしれないです。だんだんと集団でいることが嫌になっていくんですけど、でもそれに合わせてしまう自分がいる。「一緒に帰ろうね」とか「どこそこで待ち合わせね」とか、周りの友達がそう言ってくれることさえ少し窮屈だった。悪気があるとかはもちろん考えてないんですけど。

私にとって中高は空白期間で、思い出せる出来事がほとんどないんですよね。本当に、どうしてと思うくらい何もない。大人になるにつれて多くなると思うんですけど、そういう人付き合いとか、色んな制約とか、我慢しなくちゃならないこととか。でもそれに合わせているとだんだんと自分の中で何かが薄れていく感じがしていて、それにすごく危機感がある。「ああ、このまま自分が無くなっちゃうのかな」と。

friend, 2020, 45.5×38cm, oil on canvas

そうすると作品はある意味で記録に近いようでもあるし、単純な風景や少女の描写ではない。

残しておきたいとしたら風景とか、目に見えてる何かというよりは感情の方ですね。女の子を描いていない景色も、あとはモノとかも、全て昔の自分につながる働きをしていて、だから人は描いていないけど、でも痕跡として残っているようには見せたいと思ってます。

だから「風景と女の子の絵ね」と思われがちな気がしますが、でも状況を描きたいわけではないんです。

経歴の話に少し移ると、齊藤さんは日本画を学ばれてますね。もともと日本画が志望だったんですか?

 というより、最初はイラストの方でした。中高と漫画研究会に所属していたのですけれど、でも漫画というよりはずっとイラストを描いていました。その頃からなんとなく女の子の絵とかは描いていましたけど、当時は本当にイラストで。

 でも周りの子みたいにものすごい詳しいとかでもなかったし、好きなイラストレーターの人の挿絵がある本は読んだりしてたけど、でもどっぷりという感じでもなくて。だから中途半端。

 高校一年生の頃からぼんやりと美術系の大学に進みたいと考えていて、イラストを描いていたせいもあると思うんですけど、特に平面的な表現ができるなと思った日本画を選びました。どちらかというと画壇系の盛り盛りな感じよりはフラットな表現が好きだったし、受験の頃から立体的に描くのがすごく苦手で。デッサンとかも本当に苦手なんですよ。

 現在ではアクリルや油彩を使っていますが、マテリアルの扱いに関しては文法が大きく異なると思うんですが、違和感はなく?

 学部の頃は日本画の画材を使ってたんですけど、でも岩絵具を使っていると「なぜ使うのか?」のような意味づけを求められてしまう。あとは学部の頃から女の子を描いていたんですけど、日本画材でそれをすると美人画の文脈で受け取られてしまうんじゃないか、と。そちらに進みたいわけではなかったし、自分の描きたいものを考えるとアクリルでも問題なくできた。だから画材から描き方までけっこう変えましたね。

昔は髪とか顔とか、もっとディティールを描き込んでいたんですけど、もっと単純化させ、平面感を強める方向にシフトしました。普段描いていたドローイングがそれに近かくて、ノートにちょこちょこと描いていたものをタブローとして描いてみようと。結果的にそっちの方が自分にとって苦じゃなかったんですよね。

ただルールというか、自分で制限はもうけているとは思います。もうできないことはあまりしないようにしよう、と思っていて。色合いも薄くして、場所によっては色鉛筆を重ねてみたり、曖昧になってしまうので特定の方向に強めるような感じです。

忘れる, 2020, 31.8×41cm, oil on canvas

 現在の風景と少女の組み合わせを画面に持ち込んだのはいつ頃から?

 2年前くらいです。学部を出た頃かな。その頃は写真で切り取った風景とかを入れたり、少し画面がごちゃごちゃとしていたんですけど、それも幼少期という時間に設定しようと決めて。

 よく分からない感じというか、より複雑にはしたいと思ってますね。ただでさえ平坦なタイプなのでペラペラになってしまいがちになる。もっと分かりにくく、もっと複雑に、とは気をつけているかな。その方が何回も見たくなると思うんです。でも最近はそのまま描きすぎているかな、とも。

 作品と自分自身のつながりが強いことに抵抗はありますか?

 個人的な作品になっているということがですか? それは前に少し悩んでいて、というか、今も時々は考えるんですが…。

あまりにも描いていることが個人的過ぎるのかな、と。ただマイクロポップの作家さんのように、あとはナビ派の人たちとか、いつの時代にも個人的なこととか、身の回りのことを描く人たちはいるのかなとも考えていて。自分の描きたい作品とか、描いていて無理がない作品について考えるとそっちなんじゃないか、と。あとは納得の問題だとは思うんですけど。

個人的なことを描いている作家は好きですか?

 好きですね。個人的というか、さりげない、身の回りのものを使った作品と日常の断片を描いている方々は好きです。この間ワタリウムでやっていた青木さんとか、西村有さんとか、古いところでいうとドニ、ヴュイヤールとか…。

 モランディも好きです。いつも画集は近くに置いてます。あとはナビ派の人たちはやっぱり好きですね。テーマとかモチーフの点ですごく参考になる。それから画家ではないんですけど、青山静男さん。子供を描き始めた時に一番影響を受けたし、今でも見失いそうになる時によく見ています。

 イラストをずっと描いてきたということですが、イラストの遺伝子は自分の絵画に感じますか?

 …どうだろう。でも、確かに言われる時はありますね。「イラストだね」とか、そこまで露骨なわけじゃないですけど、でも言われます。

 ただ最近はどっちもかな、とは思います。イラストとも言われるし、絵画とも言われる。確かにイラストはずっと描いてたので、その感じがあっても不思議ではないと思う。好きなイラストレーターの人とかもいますし。だから最近は中間でいいかなって考えていて。

イラストと絵画の中間を。

どっちの要素もあっていいんじゃないかって。どっちの要素もあるんなら、それはそれで本当なんだろうし。

描いている少女には表情が描かれていませんね。

 描いている時の自分は冷静なんです。だから描かれている人物には表情がない。そこには距離があるんですよね。前に絵を見てくれた人から「齊藤さん自身は諦めている感じだね」と言われて、それはそうかもなと思いました。女の子というか、子供が登場している理由はさっきも話したと思うんですけど、でも子供を描いている理由自体はコンプレックスというか…、どこか憧れに近いのかもしれないです。子供であることに対しての憧れ。

やはり幼少期の自分自身や現在の自分を取り巻く環境とか、あり方に対する強く関係している。

 やっぱり今の自分と小学生の頃の自分が地続きでない感覚がどこかにあって。小学生の頃の写真とか、先生からのコメントとか見ているとずっと明るいんですよね。「ああ、そうだったんだ」って。環境も変わったし、自分が変わってきて、昔から大人しい人もいると思うんですけど、私は変わったんだなって。

午後の公園, 2020, 33.3×33.3cm, oil on canvas

それでも風景や何かをきっかけにして蘇ってくる。齊藤さんの絵画はある種の抵抗でもあるし、感情を構造的にとらえた造形でもあると思いますね。

でも複雑なんですよね。さっきも少し話しましたけど、言葉にすることは難しくて。風景とかモノとか、そういうものを見ている時の感覚は懐かしさとも違っていて、ひとに「こういう絵を描いています」って説明することもすごく難しい。

私は結局「なんか周りに合わせてるな」と思いながら真面目にここまで来てしまった。どんどん流れてしまう自分を留めておくというか、変わっていく自分も自分自身だと思うし自然なことだと思うんですけど、でももともとの自分が無くなってしまうのは寂しいことだと思うんですよね。かたちとして残っていればそれだけでも良いと思うんです。


Profile

1996年東京出身。2020年武蔵野美術大学日本画専攻卒業。主なグループ展に「日々のあわ」(高円寺pocke / 2019/ 東京)、 「fog」(exhibition space CLOSET/2020/東京)、「obキュレーション展 neo wassyoi」(hidari zingaro / 2020 / 東京)、主な個展が「tender age」 (新宿眼科画廊/2020/東京)がある。

齊藤拓未の作品はこちらから

Shinzo Okuokahttps://www.tricera.net/
1992年東京都出身。大学でインド哲学を学んだ後出版社に勤務し、アート雑誌と神社専門誌の副編集長として雑誌及び書籍の企画・編集に携わる。2019年にスタートアップ企業である株式会社TRiCERAに参加、日本初の現代アート専門の越境ECの開発及びアーティストのマネジメント、自社オウンドメディアの立ち上げを担当する。特技は速筆で、雑誌時代には1ヶ月で約150ページを1人で取材・執筆した。

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作品の詳細はこちらから アート素材としての紙のユニークさを説明したペーパーアートのシリーズ part 1を未読の方は、ぜひこちらからご一読あれ。 https://blog.tricera.net/post-tetsujiyamashita-lacybarry/ 紙と人類の蜜月関係 今回は少々の雑学から始めるとしよう。 考古学の研究によると、紙は紀元前100年頃の中国で発明され、以後は文明の片棒を担いながら発展してきた。「紙」という言葉の語源は、エジプト文明で使われた厚紙状の筆記媒体「パピルス」にあり、起源はなんと紀元前2560年~2550年までさかのぼる。 2020年現在、デジタル技術の隆盛により私たちの紙に対する愛着は薄れている。とは言え、それでも一夜にして紙文化が消滅することはありえない。例えば、メールやLINEにZoomで全てが済む時代でも、年賀状や結婚式、誕生日などの機会には未だに手紙を出すし、軽くて薄いタブレットひとつに何百冊もの本が入れども未だに、重くてかさばる紙の本を買う人も多い。時代遅れにも思えるこの素材と私たちを結びつけるのは、人類として記憶に刷り込まれたアナログさ、つまり紙への郷愁なのだ。 いくら世情が変わろうとも、4,000年以上にわたる人と紙との蜜月関係は、今もなお世界中で続く。筆者が滞在しているフランス、全国で年に数回開催される骨董市は大変な人気なのだが、特に人の興味をそそっている品は数十年前に書かれた手紙であったりもする。美しく手書きされたはがきや手紙は黄ばんでいるが、そこに記された心情は今も生々しい。インクのにじみや筆跡に、書き手の迷いや興奮が色あせる事なく見られる。 作品の詳細はこちらから 薄くても丈夫な和紙は、筆と墨に適合し発展してきた。その美しい風合いから、和明かりや障子など、家具にも使われるのはご存知の通り。古くには、神道のお供え物の包装材として使われた事に始まり、儀礼折として、折り方や折り目の知識が高位の武家教育の一環となっていく。江戸時代になり、今日私たちの知る「折り紙」遊びとして一般に広まった。若輩の私も日本で育った身、書道を嗜み、折り紙を作り、紙飛行機を飛ばし友人と遊ぶ中で、常に日本の上質な紙に慣れ親しんできた。 作品の詳細はこちらから さて、アートにおいて、「アナログ」媒体である「紙」はいかに重要なのだろうか?インドを拠点に活動するビジュアル・アーティスト、Janaki Leleは、ハンドカットによる切り絵を通して物語を紡ぐ。「Telepathy」と言う作品には詩が添えられ、彼女は「エネルギー網は目に見えない線を通り...、二つの心をつなぐ...、私のこと想ってくれていたの?実は私もあなたの事を考えていた所なの。」とささやく。なるほど、私たちの脳をつなぐのは、目に見える電力ケーブルという現代的なエネルギーだけでないのだと、改めて他人とのつながり方を考え直させられる。私たちが思考を表現する営みは、凧や鳥を空の流れに解き放つ様。この流れが、私たちの頭の中にある風車や水車のタービンを回し、相互作用のなかでエネルギーを生み出す。どうやら、テレパシーのような繫がりは、このアナログなメカニズムで同調している時に起こるであろう。 作品の詳細はこちらから もう一つの作品「Star Catchers」には優しくも朧げな夢物語が描かれる。友人の子と、窓を通りすぎる夕日をつまんで遊んだ時間から着想を得たと言う。これらの物語は全て、シルエットとわずかな奥行きを利用し、たった一枚あるいは数枚の紙の上で繰り広げられる。わずか数マイクロミリメートルの厚さの紙に、すべてのドラマを受け止め伝達するキャパシティと可能性が秘められているとは驚嘆だ。なぜそんな事が可能なのか。それは、紙が有機的な存在であることに秘密があろう。思考とコミュニケーションが有機的に形成される様を見たように、生物学的エネルギーが人間と紙のアートの間で相互作用しているのだ。紙が触媒として芸術家と芸術を、また芸術と私たちを結びつける。 作品の詳細はこちらから 日本を拠点に活躍する百鬼丸は、これまでに1万点以上の作品を手がける多作の切り絵作家として、侍たちを21世紀の世界に紙で躍動させてきた。彼の描く線にはまるで日本刀のような切れ味の良さが際立つ。日本の歴史小説の表紙デザインを多く手がける彼のモチーフは、武士や忍者が活躍していた時代のものが多く、その大胆な構図は、浮世絵の躍動感とマンガのキャッチーさを併せ持つ。これらの要素と、生き生きとした人物描写が相まった彼の作品には生命力が溢れている。有機的な紙にその生命を宿す包容力があることは言わずもがなである。 作品の詳細はこちらから 彼の作家活動は、作品と同様にパワフルだ。平面・立体の切り絵アートを制作するだけでなく、テレビ出演、日米仏での展示会、そして興味深いことにライブで切り絵パフォーマンスも行うと言う。彼の武者デザインが施されたマスクも販売されているそうで、ウィズコロナ時代には頼もしい限りだ。百鬼丸は大学で建築を学び、その後陶芸の修行をしたりと、まるで浪人侍のようなキャリアを歩んできたやも知れぬ。しかし今、日本切り絵界の先鋒として自らのキャリアを切り拓き、後進に道を描き示す。  https://www.youtube.com/watch?v=yDVpG4p948E&feature=youtu.be TRiCERAでは今後もアーティストの情報をお届けしていきます。切れ味鋭い知見や味わい深いコラムをもっと読みたい方々については、ArtClipニュースレターの登録をお忘れなく。

現代に残された「絵画を描く」こととは何か – 東麻奈美 インタビュー

美少女フィギュアや玩具をモチーフに、回転という動きを通し時間をキャンバスに閉じ込める東麻奈美。時間というシンプルで古典的な絵画テーマ、油彩画という絵画技法、そして現代の日本文化の一端を象徴する美少女フィギュアを組み合わせる東の作品は、絵画というメディアのレパートリーの広さ、そして現代において絵画を描くことの可能性をストレートに物語る。今回は制作の背景、これまでのキャリアについて話を聞いた。 東さんはこれまでに回転させた美少女フィギュアをモチーフにしながら時間や運動性を示唆するペインティングを制作してきましたが、テーマとしては未来派など西洋的な流れも感じさせます。まずは現在の作品について伺えますか?  もともと学生の頃から絵画に動きを閉じ込めることをしたくて、最初はブレとか揺れ、そういうものを納めようと取り組んでいました。当時はフィギュアではなくおもちゃだったり、本物のメリーゴーランドを長時間露光で撮影したものをベースに描いていました。  ただ当時描いていたのはどちらかと言うと抽象絵画。考えていたコンセプトでは自分の技量のなさもありどうしても表現しきれなくてかなり迷走していました。その中で、コマ撮りアニメのようにして回転を表現したりする実験をしていたんですが、実は私がアニメや漫画好きと言うこともあり、「フィギュアを回転させ、それをモチーフにしたらどうか」と。そしたらこれがハマったんですね。目に見える物理的な回転だけじゃなく、キュビスムや未来派の人たちがやっていたことを現代のモチーフに変えてやることで過去から未来にかけての時間の流れとしての回転が表現できる、と思いました。 抽象絵画を描いていたというのは少し意外でした。 今の作風からは意外に思われるかもしれません(笑)。これは私自身の問題というか、どちらかと言えば自分のコンプレックスに根差していて。というのも、私は絵がものすごく下手(苦笑)。とにかく「描く」ということが苦手なんです。高校の予備校から大学の初期の頃は真面目に絵画をやってみようとしてたんですけど、やっぱり描けない。油絵の描き方がさっぱりわからないんです。周りは楽しんで描いているし、まっさらなキャンバスに楽しそうに向き合っている。でも私にはそれが出来なくて、ただ色を扱うのは好きだったのである意味では逃避する先として抽象を選んでいた風ふしもあるんですよね。結局それも難しかったんですけど(笑)。 MERRY GO ROUND (ツインテール) 29.7 × 42cm, Giclee Printing on paper, edition:50 作品はこちらから 今はフィギュラティブな絵画を制作されています。真反対の方向ですよね。  今の制作方法にたどり着いたことですね、転機としては。ある種の解放に近い感覚です。今はモチーフになるフィギュアをターンテーブルに乗せて回転させ、写真を撮り、パソコン上で合成しながら絵画に落とし込んでいくんですが、つまり最初に描くものを定めることで、そもそも「何を描いたらいいか?」のような疑問を生まないようにした。設計図を用意してから描けばいいんだ、と。その点に気づけたことは私のような人間が絵画をやっていくためには大きい発見でした。 コンセプトやモチーフをしっかり定めてから描くことは自分の趣味性や感情を隔てる意味もありますか? あるかもしれない…というより、ありますますね。そもそも自己表現がすごく苦手な人間なんですよ。無軌道に作品を描けるタイプではない。きっちりしていて、真面目すぎるくらいに真面目というか。自由奔放に出来ないからこそしっかり設計して描くんですね。最近はそれもいいなと思っていて。感情や内発的で物語的な作品の良さもありますけど、私の場合は極限まで自己性を無くして、極限まで純粋に造形性を追求していくことかな、と。使用するフィギュアも自分の趣味とは極力離れたものを使う。自分の趣味とか感情が混入することを防ぎたいからで、本当に、純粋な意味でフィギュアの造形性をテーマにしたい。作品も究極的には目で見て、面白いと思ってくれたらそれでいいと思っていて。 嫌な言い方になるかも分かりませんが、端正な造形性を持った東さんの作品の場合、デジタルとアクチュアルな絵画の境が難しくなりませんか?あくまでも油彩を使用した絵画であることが東さんの作品にとっての一つの生命線な気もしていますが。  確かに「CGでいいじゃん」と思われてしまうかもですが、でも実物を見たときの筆跡や手で描いていることの痕跡も面白さの要素だとは思うんですね。その点こそ私がわざわざ油絵を続けていることの意地というか。やっぱり絵画の物質感は好きだし、その物質に対するこだわりのあるなしがイラストレーションと絵画を区分するとは考えています。 Installation view from MASATAKA contemporary こだわりの点で言えば、もう一つはコンセプトですね。東さんは時間や動きを平面に落とし込もうとしている。その考えはいつ頃から?  もしかしたら個人的な性質に根差しているかもしれなくて、私はものが劣化していく様が耐えられないんですね。ものが古くなったり、汚くなったりすることが耐えられない。ひとによっては古いものに愛着が湧いたり、革製品なんかは使い込むことで愛着を感じることもあると思うんですが、私は袋から出した新品の状態がピークだし、そのままを保ちたい。傷ついたり汚れたりなんて辛すぎるというか。だからモチーフに使うフィギュアも必ず新品を使うんですけど、最近は絵画にすることで閉じ込めているふしがある。 絵に関するバックグラウンドを聞かせてください。絵画を見始めた、あとは描き始めたのは小さい頃から? 本格的にというか、美術の歴史を意識しながら見始めたのは大学に入ってからですが、描き始めたのはもっと前ですね。実は母が漫画家をしていて、と言っても高校生の頃から私を産むまでのごく短い時期ですが。そのせいか「いずれは私も漫画家にならなきゃいけない」とずっと思っていて。強要されたわけでもないし、他に理由があったわけでもないんですけど、漠然とそう思っていたんですね。で、小さい頃からはずっとを漫画を描き続けていて、でも投稿するとか、雑誌で発表するとかいうレベルでは全然なく、趣味の域を出ないものでしたね。でも途中で自然と「自分は漫画を描きたいわけじゃないな」と気づき、むしろやりたいのは一枚の絵だろうと。 フィギュアを絵画に引用する点では、そのままの形でないにせよ、サブカルチャーの背景を感じる点ではあります。当時の絵画シーンは意識していましたか? 確かに漫画とか、あとはアニメですよね、その辺りのカルチャーを引用した絵画の流れも認識はしていましたが、でも私の場合はもっと個人的なものだったように思います。まっさらのキャンバスに描けない、だから何か設計図を用意する、だったら自分にとって身近なフィギュアをモチーフにしよう、という流れ。だから現代アートの文脈云々を意識してここに至ったというよりは、自分の中にある絵画との自然なやりとりの延長線上にあると思います。 活動を重ねてきて感じること、自身の作品について考える部分はありますか? 作品に対してもそうですが、最近はよく活動そのものについて考えますね。特に活動を続けるということについて。というのも、大学を卒業してみんな描くことをやめてしまうから。続けていてもやめていく。それは個々人の事情から止むを得ないことだと思うんですけど、でも学生時代はみんな同じアトリエで描いて、一緒に切磋琢磨していたと思うんですよ。でも今は一人で描いているし、同級生の作家も少なくなってきた。さっきもお話ししましたけど、私は自分自身が作家に向いているとは思えないんですよね。真面目で、設計図を用意しないと絵を描けないし、普通の家庭に育って特に変わったバックグラウンドがあるわけでもない。周りにはもっと絵を楽しんで描いている、もっと作家というあり方に向いている人がたくさんいる中、でも彼女たちはいろいろな事情から作家をやめて、なぜか自分だけが残っている。すごく不思議な状況だと思うんですよ。だからこそ意地になっているのかもしれない。意地の一言ですね(笑)。「とにかく続けよう」と。ずっと絵が下手だったけど大学院まで行って続けているわけで、その先に何があるかわからないけど、描き続ける先に何かがあるかもしれない。描くこともそうですけど、描き続けることは、多分もっと孤独な戦いなんでしょうね。 プロフィール1988年神奈川県横浜市生まれ。2013年女子美術大学大学院美術研究領域美術専攻修士課程修了。美少女フィギュアや玩具をモチーフに、回転という動きを通し時間をキャンバスに閉じ込める制作を行う。2013年福沢一郎賞受賞。主な展示に「メークリヒカイト4」レントゲンヴェルケ(2013)、「未来展」日動画廊(2016)、「ICON」MASATAKA CONTEMPORARY(2019)など。その他、NYや香港など多数のアートフェアに出品。

Feature Post

自然現象の可視化、人間の感覚への刺激

赤松 音呂「メテオン」(ミヅマアートギャラリー) 'メテオン'は5月29日から6月29日まで開催中。神奈川を拠点に活動する赤松ネロの作品が、東京・市ヶ谷田町のミヅマアートギャラリーで展示されます。 目に見えない自然現象である地磁気の効果を主に研究している赤松。しかし、この目に見えない現象を、独自の方法論で表現しています。 自然現象を具現化することで、彼の作品は視覚、音、時間、体験を中心とした作品となり、現象学的な体験となる。 本展では、熱気化の原理を利用した「メテオン」と、地磁気の存在によって流動的に回転するインスタレーション作品「チジキグモ」の新作2点を発表します。 赤松 音呂とミヅマアートギャラリーの声明によると、人間は第六感として磁気を感じる可能性があることが近年の研究で明らかになっています。赤松はこの「地磁気」というテーマを作品に取り入れています。 熱の気化の原理や地磁気の影響を可視化した作品でありながら、五感で自由に作品や展示を感じてほしいと考えています。私たちの第六感とは何なのかはわからないかもしれませんが、本能的に何かの現象を感じることがあり、それを第六感としたいと考えています。赤松が扱うテーマを押し付けることはありません。 赤松の自動で動くインスタレーション作品は、微妙な音を出しながら動作します。目や耳といった人間の五感を刺激する作品は、私たちを目覚めさせてくれます。赤松が探求する自然現象を感じることができるかどうかは別として、慌ただしい生活の中ではなかなか感じることのできない「五感で覚醒する」という体験をしてみるのもいいかもしれません。 記事を書いた人:Jeongeun Jo韓国出身、日本在住。東京藝術大学大学院美術研究科を卒業したTRiCERAのメンバーの一人。アーティストとしても活動しています。

内容と画法で目を引く作品

Maria Farrar “Too late to turn back now” OTA FINE ARTS Installation view of “Too late to turn back now” (2019) by Maria Farrar at...

加藤公佑 個展「Re-scope」を開催致します。

この度TRiCERAでは2/20 - 2/27 の会期にて加藤公佑の個展「Re-scope」を開催致します。これまで風景の分解と再構築というキーワードからランドスケープの構造や視覚そのものの曖昧さに言及するような作品を制作してきた加藤。今回は「誰かの視点」をコンセプトに、SNSから引用した画像をベースにしながら制作したペインティング約12点を展示します。SNS上にアップロードされ流れていく写真の多くは「他人の視点」であり、実体験として私たち自身が獲得したものではありませんが、しかし今日デジタルシフトによって日々絶え間なく、私たちはその「他人の視点」を大量に受容しています。もはや、ひょっとすると自らの肉眼で風景を眺めているよりもずっと第三者の視覚を通している方が多いかもしれません。加藤のペインティングは風景が分解され、色彩や形態が崩され、言うなれば情報が変換される瀬戸際を描いていると言えるかもしれません。今回の作品と展示で彼はデジタル化した視覚世界に生きる私たちにとって見ることとは何か、かつてと今とで「見る」にどのような違いが生まれたかという、ものの見方に関する問い直しの機会を目指しています。加藤公佑がキャンバスにおいて展開する、風景や視覚をめぐる実験と冒険を、是非ともお楽しみ下さい。 展示情報会期:2021/02/20 - 2021/02/27会場:TRiCERA Museum東京都港区高輪3-22-5 SDS高輪ビル※本展示は、新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から完全予約制とさせて頂きます。来場の場合は下記のフォームよりご予約下さい。みなさまにはご不便おかけしますが、何卒ご了承下さい。 予約はこちらから    

似顔絵の表裏

Ikeda ayakoは、自分の感情を肖像画という形でアウトプットする画家です。彼女は色や輪郭といった対象物の細部を表現することを目的としているのではなく、自分の感情や思考、自分自身の中で感じる動きを反映させています。絵画は自己表現のようなもので、彼女の精神を絵画という形でスケッチしているのです。 肖像画の作品が多いようですが、どのような作品なのでしょうか?まずは作品の説明をお願いします。 -作品はその時の気分に左右されるので、いつも描いているテーマが決まっているわけではないのですが、似顔絵を描くことが多いです。ただ、その時の気持ちの表情で似顔絵を描くことが多いです。 小さい頃から絵を描くのが好きで、よく人を描いていました。今でも人を描くのが好きなのは意図的ではないのですが、自分の感情をダイレクトに絵に反映させて表現することを考えた時に、風景や抽象が合わないような気がしました。何となく、自分の感情をダイレクトに表現するにはポートレートが一番いいような気がします。 vivid r_02, 53×45.5cm 作品に描かれている人はランダムな色で描かれていて、リアリズムで描かれているわけではありません。モチーフは架空のものですか? -いや、想像力は自分には合わないので、絵を描くときには原型が決まっています。でも、完成した作品を見た時に、イメージと違うので、原型が役に立っているのかなと思うこともあります。体の各部位の色はイメージを見ながら決めているので、肌の色が緑などランダムな色になっていることもあります。先ほども言いましたが、絵には自分の気持ちが反映されているので、完成した作品を見ると、その時の気持ちが蘇ってきます。作品を制作している間ではなく、絵を描き終えて初めて納得します。 Dedicated to P_07, 19.5×25.4cm もともと絵描きになりたいと思っていたのですか? -いや、でも子供の頃から絵を描くのは好きでした。漫画のようにストーリーを作ることはできないけど、絵は描けるので、美術学校に行こうと思いました。学校の傾向として、体全体を描くように言われましたが、顔の方が面白かったですね。学校では主にイラストレーションの勉強をしていましたが、学んでいくうちに「クライアントの仕事」が苦手になってきました。自分の描きたいものを描きたいと思っていました。 作品にはその時の感情が反映されているとおっしゃっていましたね。でも、モチーフによって描きたいものは変わってくるんですか? -場合にもよりますが、流れがあるわけではないですね。ポートレートを描くのは、何かに追われている時に描くことが多いような気がします。だから、絵を描くことで自分の感情を出しているんだと思います。 去年の秋にスズメを拾って2日くらい一緒に過ごしたんですが、なぜか似顔絵以外のものを描きたいという気持ちになったんです。なので、その時は顔以外のモチーフを描いていました。もしかしたら、これから出会う人や目にするものによって、モチーフは変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。

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