土曜日, 5月 15, 2021
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小山登美夫ギャラリーでのVarda Caivano’s個展


Varda Caivano,”Untitled”, 2019, water-based oil paint (gouache and ink) on linen, 90.9 x 57.6 cm (frame: 150.9 x 117.6 cm), ©Varda Caivano, Courtesy of Tomio Koyama Gallery

10月11日から11月9日まで、小山登美夫ギャラリーにて、イギリス・ロンドン在住の画家ヴァルダ・カイバーノの個展が開催されます。カイバーノは1971年ブエノスアイレス生まれ、2000年代初頭よりイギリスを拠点に活動しています。小山登美夫ギャラリーでの4回目の個展となる本展では、最新作を発表します。

彼女の芸術的な実践では、絵画のプロセスそのものが彼女の主な関心事となります。カイヴァーノは、作品のプロセスを重視しながらも、物質性にも注目しています。彼女の作品は、多様な色彩、筆致、豊かな層といった「絵画」の基本的な特徴を中心に構成されています。今回の作品では、作品の中の余白を強調した作品へと絵画の幅を広げました。これまでの整然としたキャンバスの全面に描かれた作品とは異なり、無彩色の空間を強調し、粗い麻の布を使用した作品に挑戦しています。キャンバスの限られた空間から無限の空間を可能にするのが余白です。そのため、作品の余白は、その余白の先にある観客の想像力を刺激します。彼女の作品は、独自のスタイルを保ちながら、様々な表現方法で作品を展開していると言えます。


The Installation view of Varda Caivano’s solo exhibition (2019) ©Varda Caivano, Courtesy of Tomio Koyama Gallery



The Installation view of Varda Caivano’s solo exhibition (2019) ©Varda Caivano, Courtesy of Tomio Koyama Gallery

描かれたものだけに焦点を当ててみても、以前の彼女の作品と完全には変わりません。彼女のテーマは変わらないが、それを効果的に、あるいは多様な方法で表現する方法を変えただけである。カイヴァーノは「プロセス」に焦点を当てているので、物質性も際立っています。彼女の作品における「プロセス」とは何か。それは、どのようなコラージュを作るかというような意思決定と観察の繰り返しかもしれません。また、キャンバスの上で色を合わせることを考えることかもしれません。

その結果、彼女の作品は、物質性、彼女の関心事、時間を含むプロセスの痕跡となる。彼女の時間や関心事の痕跡は、特定の描写(描写)ではないように思われます。カイヴァーノ自身は、作品について以下のように考えています。

“私は絵画を表象というよりも、詩や音楽の文脈の中でのプレゼンテーションのようなものだと考えています。”

(ヴァルダ・カイヴァーノ インタビュー。”想像力をかきたてる無限の絵画”インタビュアー 島田耕太郎『美術手帖』2017年2月号)。

また、2016年より小山登美夫ギャラリーでの4回目の個展となる本展では、最新のペインティング作品9点と、コラージュ、ドローイング、紙に描く作品などの額装作品を新たに展示します。さらに今回の新作では、これまでのシリーズから使用されていた色が変更されています。2016年の日本での個展で展示された前シリーズ「Grey Paintings」ではグレーを中心とした色使いをしていましたが、今回の新作では以前よりも赤や黄色、緑などの鮮やかな色使いが見られるようになっています。

一言で言えば、彼女の作品は、キャンバスの中で停滞しているものではなく、詩や音楽の文脈のような流動的なリズムを持っているようにも見えます。特にフレームと意図的な余白を使った新しい提示方法は、彼女の流動的なテーマを最大限に引き出している。

Varda Caivano’sの個展

DATES:2019年10月11日(金)~11月9日(土)

営業時間 : 午前11時~午後7時
日曜、月曜、祝日はお休みです。
入場無料。

記事を書いた人:Jeongeun Jo
韓国出身、日本在住。東京藝術大学大学院美術研究科を卒業したTRiCERAのメンバーの一人。彼女自身もアーティストとして活動している。

Shinzo Okuokahttps://www.tricera.net/
1992年東京都出身。大学でインド哲学を学んだ後出版社に勤務し、アート雑誌と神社専門誌の副編集長として雑誌及び書籍の企画・編集に携わる。2019年にスタートアップ企業である株式会社TRiCERAに参加、日本初の現代アート専門の越境ECの開発及びアーティストのマネジメント、自社オウンドメディアの立ち上げを担当する。特技は速筆で、雑誌時代には1ヶ月で約150ページを1人で取材・執筆した。

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